第2章「植民地の化学工場」中の「統治と支配」より

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昭和十二年頃というのは、朝鮮窒素の転換期でした。日本窒素は朝鮮で巨大な電力を安く手に入れ、アジアにかけての市場が朝鮮から延びていたから、大量生産、大規模化できる条件があり、肥料系統はそっくり成功した。それが軍需産業に転換していき、もう経済としての自立計算をしなくてもいい時代にだんだん入っていった。 (中略) 日本全体が戦争経済にのめり込んでいったわけですね。その朝鮮窒素の新しい展開のベースとなった技術は、肥料と火薬とカーバイドです。
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この聞書を読むほどに、現在の状況を形作っている価値観なり発想は戦前の延長線上にしかないということが、ひしひしと感じられる恐ろしさ。



韓国の友人に、父親が朝鮮窒素の火薬工場で働いていたという話を聞いたことがある。
彼の父親は、朝鮮の解放後すぐに、日本の軍需工場で働いていたということで親日行為を疑われ、連行され、帰ってこなかったという。
朝鮮戦争が始まると、興南埠頭から避難船が出た。米軍の船だった。彼の母親と子どもたちはその船に乗って南へと逃げ、釜山の沖合の巨済島の難民収容所へと収容され、母親は生きるためにそこで出会った男性と再婚する。相手の男性もまた混乱の中で妻と生き別れになったひとだった。
そんな話をふっと思い出した。