石牟礼道子/金時鐘/小野十三郎

石牟礼道子 「短歌と私」より  1965年頃

 幻想をすてよ、幻想をすてよ、もっともっと底にうごめく階級のメタンガス地帯を直視せよと云い聞かす。愛は私の主題であったはず。花のような色彩はこれっぽっちも今私の周囲にはない。そう云う色彩は愛ではないと云いきかす。熱い衝激がまだ私の空きっぱなしの傷口にやって来ないのだ。
 ひとりの愛、ひとくみの愛はみんなの愛に密着していたであろう太古はもうとり戻されぬのか? 伝統の中に自己惑溺していて原始性を喪失した現代短歌。私は自分の中の詠嘆性をこれでもかこれでもかと切り捨てる。そうすることでしかふたたび短歌をあの高い詩性をみいだすことが出来ぬから。



金時鐘『「在日」を生きる』より

短歌的抒情の底流にあるのは、日本的自然賛美です。日本の近代抒情詩を書いた人たちにとって、自然というのは、自分の心情が投影されたものなんです。だから落葉は悲しいし、秋になったら寂しくなるし、雲を見ると涙が出る。本当は、自然はこんなに優しいものと違いますよね。

僕が自分の日本語についていつも不安でならないのは、このような、すでに成り立っている心的秩序に自分も陥ってはいないかということです。


小野十三郎『詩論』

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言葉に新しい感覚と生命を与えること、これが詩人の仕事である。詩人はそのために民衆の言葉の中に絶えず宿っている短歌的リリシズムへの郷愁を断ち切らねばならない。かかる郷愁を断ち切ることが、現代の口語で詩を書くということのほんとうの意味であり、ここでリズムは批評だということを詩人ははじめて言えるのだ。


98
歌と逆に歌に。

76
現代の短歌が持っているリズムに抵抗していると、古い日本の歌の調子というものが私にはよくわかる。他意はない。古い日本の歌の調子を私は持ちたいのだ。