ふたたび説経祭文は舞台から離れてゆく。多摩の農村へ。車人形へ。

<年中尻切半天を着ていた三代目浜太夫

「名人と言われた三代目浜太夫の時には、説経は大道芸になった」

太夫の前身は雲助(籠担ぎ)。
三田村鳶魚は、浜太夫の底辺に生きる庶民性に説経の本領を見いだしている。


「説経が忘れられたようで絶えないのは、芝居のお客にも寄席のお客にも離れて、いまだ生命が尽きないためである。それは大道芸として存在し得られたからだ。それはまた尻切半天の浜太夫を生命とするわけでもあろう」


「村落に入った説経節は、農間の娯楽として傾倒され、田夫野人の嗜むところとなって、祭礼やら日待やらに郷土を賑わした」

※日待:前夜から潔斎して翌朝の日の出を拝むこと。待つ間の退屈しのぎに皆で集まり飲食し、歌舞音曲を楽しむことが多く、次第に遊興化した。



「西川古柳の車人形は、説経零落の余りに考案されたものである。」
「説経が発達して浄瑠璃型にまで進んだ。それを人形から離すことは、進展した生命を絶つのである。古柳の惨憺たる苦心は、説経の零落した際に、車人形を成功して興行を簡易にし、費用を軽減し得て、ついに今日までも説経を人形から離さずに済んだ。」