祭文の風景 記憶を語る声から。 

山形の祭文語りにまつわる記憶。



明治末年 越後頚城郡春日野村正善寺  北条時宗氏による。


「私は幼い頃、丈余の雪に閉ざされた旧正月に度々この村の長格の家に連れられて二、三日を過ごした。その村で雪の正月を楽しむ祭文語りを聞いた。大きな家で十畳二間の座敷に炉のある茶の間も通して、村中の人達といっても六十軒位のものだが、皆一家総出で集まってきた。奥の一段と高い床の間と仏壇の在る所に赤い毛布を敷いて、それに二人の爺さんが並んで坐っていた。山袴をはいて、すずかけみたいなものを肩から垂らし、一人は小さな錫杖を持ち、一人は大きな法螺貝をもってゐた。その前には高坏に湯呑みがのってゐた。(中略)時が来ると主だちの合図があってボーボービュービューボウワウワウと法螺貝が吹き分けられ、ヂュンヂュンと錫杖が合の手を入れる。それにつれてデンデンデロデンデロデン豪快な口調で二人の翁から流れ出る。祭文は郷土に因んだ英雄伝みたなものだったが、合の手や一と区切の折に入れる法螺貝、錫杖、デンデンデロデンが面白かった。」




★「山形の祭文語りは、農閑期には一人ないしは数名で県内はもちろん宮城・岩手・新潟までも旅をしていた。巡業の際には警察署で遊戯鑑札を受け、祭文道具や芸名を染め抜いた幕を持ち、毎年巡る順序に従って回村したのである。各村には宿を提供し、世話をやく家があり、そこに宿泊して幾晩か語りつづけるのであった。」(「貝祭文の芸態」小山一成 より)


★山形に根拠を置く旅の祭文語りと越後の瞽女の、旅の宿での交差は、長岡瞽女小林ハルの証言にある。

小林ハルは、旅の宿で、祭文語りの語る「信徳丸」を聞き覚えて、自分の語りに取り入れた旨を語っている。