もしかすると、どのような詩にもその「睦月廿日」が書きこまれてある、といえるのではないでしょうか? もしかすると、今日書かれている詩の新しさは、まさしくこの点に――つまり、そこにおいてこそもっとも明確にそのような日付が記憶されつづけるべく試みられている、という点にあるのではないでしょうか?
わたしたちはみな、このような日付から書き起こしているのではないでしょうか?
そして、どのような日付をわたしたちはわたしたちのものだと言うのでしょうか?
といっても詩はなんとしても語るものです! 詩はみずからの日付を記憶しつづける、しかも――語るものです。たしかに詩は、いつも自分自身の、ひたすら自分自身の事柄において語るものです。
(中略)
まさしくこのありかたをとりつつも別のものの事柄をにおいて語ること、それが古来、詩の願望に属していたと思います、―−まったく別のものの事柄に置いて語ること、であったかもしれません。
(中略)
詩は「別のもの」へおもむこうとします、詩はこの別のものを必要とします、詩は一人の相手を必要とします。詩はこの別のものをたずねあて、この相手に語りかけます。
どんな書物、どんな人間も、「別のもの」をめざす詩にとっては、この「別のもの」の姿です。
詩がおのれに出会うすべてのものに対してはらおうとする心づかいは、つまり細部とか輪郭とか色彩とか、さらには「こきざみなふるえ」とか「ほのめかし」とかに対する詩のひときわ鋭敏な感覚は、思うに、(中略) むしろわたしたちすべての日付を記憶しつづける集中力なのです。
★ たとえば4・3だとか、たとえば5・18だとか、たとえば8・15だとか、たとえば9・11だとか、たとえば6・23だとか、とたえば3・11だとか、たとえば5・11だとか、水晶の夜だとか、わたしたちには数多くの特別な日付がある、それはこう書き出してみると、死にまつわる日付ばかりだ、死のほうから詩はやってくるようだ、死のほうから、どこへ?
生きようとする者たちのもとへ?
生きているだれもが特別な日を持っている、
生きているものそれぞれの誕生の日が、それぞれに世界のはじまりを告げるものであることを、私達は知っている、アレントが語ったように。
詩は死者の声をもって、生者が世界のはじまりを呼び出すものとして、語られる言葉なのかもしれない。
生と死にまつわるすべての日付を記憶しつづける事、語り続ける事、語り明け続ける事、それはくりかえし世界を再生させようとする者たちの対話を願う言葉として立ち現れるのではないか。