<『お岩木様一代記』についての柳田國男の感想>
・語り手の文作の多いこと
・是非とも守るべき伝承の少なかったこと
・之に加ふるに忘却と誤解あり
・聴手の曲従もしくは容認
・新しい文化の意識せざる影響
・ハンカチとカバンは殊に驚く
・現代文学の印象がはたらいて居る
・標準語を雅語と信ずる一般の傾向について居る
・古い章句の幽かな記憶がまじって居る
・注意すべきことは三荘太夫は後から付けたして居ること
※ これはそのまま口承の、いまを生きている語りの特徴をそのまま述べたものとも言える。
語りは生き物だから、常に今の空気を吸っている、語るごとに生まれ変わる。
<五来重先生によれば>
●黒百合姫物語が羽黒祭文であるのに対して、『お岩木様一代記』は岩木祭文ともいえる岩木修験の説経祭文が、津軽イタコにかたりつがれたものである。
●説経祭文の片鱗は、その語り出しに現れる。
「国のお岩木様は加賀の国に生れだる私の身の上。私の母親は加賀の国のおさだ」。
これは、「国を申さば丹後の国、かなやき地蔵の御本地を」(山椒太夫)と響き合う。
●一人称で語るところが古い形である。
●現在津軽では丹後船、丹後の人をきらうというのは、むしろ歌説経や浄瑠璃の「山椒太夫」に影響されたためといわざるをえない。
●霊山の神仏の本地をあらわす形式は中世のものであるから、「お岩木様一代記」は「山椒太夫」よりも古い。
●三つもの山の神の本地を出すのは、それぞれに共通した説経祭文があったのを、一つの物語にまとめたことを暗示するものだろう。