あんじゅが姫は母を訪ねて旅に出る。

「こんなに困難盡し終へでも/母ど致するものもなし/年は7つの年に/頃は四月の春の頃」

(3つの年から、7つまで、「津軽三十三観音、六十余州/日本全国、西国三十三観音みなかげで」旅したわけです。この放浪は、まるでスサノオの放浪のようでもあります。放浪する神は、疫病を祓い、魔を祓う、荒ぶる神でもあります。たとえば、わかりやすい例をひとつ、お岩木様/あんじゅが姫は、のちのち嵐を起こして丹後という魔を祓う神になりますね。)


またもや「あぶらおんけん」の御利益で、橋をわたって、
「御免なさいと行てみれば/若い姐さん一人の身の上」

これが母のおさだで、おさだは涙で身の上を語り、
「そごで私が/ごめんなさい/母上様ですかと/われぁ この世のあんじゅが姫であります」

母上おどろく、あんじゅ姫のしるしを確かめようとする、でも目が見えない、
「そごで母の右の眼を撫でれば/眼はばつきと開いで/母のおさだも/此処に神がたつたものだべが/世はさがさまねなたものだべが」


ここにあんじゅが姫の神の業がはじめて示されるわけです。目が開くこと、これは盲目の語り手たちの切なる願いでもありますね

「そごで母のおさださん/あんじゅが姫や あんじゅが姫や/わが身体から/神は生れたものだべか」

(このおさだの叫びは、「お岩木様一代記」のクライマックスの一つでもありますね。ひとりの人間の女が、それも盲て、棄てられ、鳥追いをしている、もっとも賤しい者のひとりである女が神の母である。これはまるで聖母マリアではないか)