近代という仕組みは、きわめて高機能の忘却装置なのだということ。

人間が日常の中で具体的に体験して、物事を考え、記憶にとどめ、記憶を伝え、個々の生が断片化せずに生きていくことのできる範囲というのは、たとえば、昔、風土の神、土地の神、田の神、山の神、水の神等々、小さき神々を祀り、その神々の神威が及ぶ範囲のみだったのではないかと思うのです。
そういうことを思う私は、小さき神々と人々が分かち合う記憶ということを考えているわけです。


神というのは、一種の記憶装置ですね。
土地土地の小さな祠の謂れというものは、神話化、もしくは伝説化されたその土地に生きた人びとの記憶ですね。


人間というのは、観念では生きられないけれども、だからこそ、みずからの記憶を「小さき神々」のような、それぞれの土地の具体的な「物語」に委ねる、ということを長い歴史の時間、やってきたように思うのですね。


この小さき神々を一網打尽に殺した[虐殺装置]、そして[忘却装置]が、近代という装置なのだろうと、近頃ますますつくづく思います。

本来、「国家」とかその「歴史」とかその「神」とかいう観念はあまりに大きすぎて、それを日々の暮らしの中で血肉としていくことはひとりの人間にとって困難であるけれど、一方で、記憶のよりしろ/物語のよりしろ(小さき神々)を失った人間にとって、つまり記憶喪失のよるべない人間にとって、よるべない心と肉体を丸呑みしてくれる大きな観念ほどありがたいものもないのかもしれません。

人間の思考というのは怠惰で、日々の生活というものは本来的に習慣づけによる条件反射で成り立っているものでもありますから、手取り足取り条件付けをしてくれる装置には、人間に大変馴染みやすいものでもあるのでしょう。

しかし、いったい、いまこの近代社会に生きている誰が、国家の日々の動きを把握し、歴史の流れを認識し、みずからの行く末を確かに知ることができるのでしょうか?

ほぼ誰もわかっちゃいないですね、それでも日常は進んでゆく、過去と現在と未来に対して盲目の状態のまま、自分が盲目であることにも気付かずに、日常は進んでゆく。

ほとんどの人間は大きな観念を捕まえて使いこなすよりも先に、観念に捕まって使いこなされるばかりなのでしゃないでしょうか。

とてつもなく恐ろしい。

だから、生きてゆく命にとってなにより大切なのは、
自分の身の丈で、暮らしの範囲で、日常の流れの中で、記憶をつなぎ、今を語り、未来を眺めやる、そのための「場」をよみがえらせること、大きな神(=物語)に放逐された小さな神々(=物語)をわれわれのもとにいま再び呼び寄せること。

その昔、虐げられたモノたち、踏みつけられたモノたち(それは人間とは限らない。ケモノだだって虫だってそのなかにいる)が、苦難を乗り越えて、小さき神になって、まつろわぬ記憶を神の物語として残したことを思い起こします。

(その昔、旅する芸能者/宗教者が運んだ、たとえば「山椒太夫」のような物語は、土地土地の小さき神々の依代でもありました。小さき神々は旅する「声/語り」が物語を語り出す「場」に降りて来て、いまここで語られている物語を自分自身の物語に書き換えてゆく、「山椒太夫」は、それぞれの土地でそれぞれの小さき神々の物語に再構成されてゆく、というようなことが、とてもありふれたこととして繰り広げられていた。それは、民草が主となって繰り広げられてきた、血も肉も声も通う「歴史する」風景である、といってもよいのではないか)

小さな神々とは、われわれの命のことなのだということを、私はいま強く強く思い起こしています。

と、そんなことを思っているときに、金石範のエッセイのの中で、ナチスの忠良なる官僚アイヒマンの言葉に再会する。
そうだ、この言葉のことをすっかり忘れていた。

「百人の死は悲劇だが、百万人の死は統計にすぎない」

確かにそうでしたね、近代とは統計の時代、数字の時代でしたね。
百万人の魂も靖国に投げこめば、分離不能かつ抽象的な一つの護国の神になるという、溶鉱炉のような数学もあるのでした。

統計のなかから、命をすくいだす。抽象化された命に息を吹き込み、血と肉を蘇らせる。
それは、旅する声/語りを失って久しい近代世界に生きるわれらにとって、「文学」が必要である何よりの理由であるようにも思うのです。


(殴り書いたこの項、ひきつづき思考)