きのう、津軽イタコの「お岩木さま一代記」を聴いた。


いや、イタコが語るのを聞いたわけではないんです。
1931年に採録されたテクストをもとに、「声」の表現者である井上秀美さんに、「お岩木様一代記」を演じてもらった。
これが実に面白かった。


今回「お岩木様一代記」を口演した井上秀美こと井上イダコは、遠州の生まれです。遠州弁は、聞けば、語尾に「〜だら」とつけたりするのが特徴らしい。当然、こういう分かりやすい特徴とは別に、標準語慣れした耳には聴きとれない微妙な音や、標準語とは異なる抑揚がある。

井上イダコはかつてアナウンサーでありました。アナウンサーといえば、標準語スピーカーの象徴みたいな存在ですね。在籍していたのは静岡の放送局です。なのに、遠州訛りの気配が放送用の標準語に滲むのを厳禁されていた。そのときの違和感を、井上イダコは、今回南部訛りのイダコを演じて、「ああ、あれは声を封じられた怒りだったのだ」とはじめて気づいたのだと言いました。

それは、「声を封じられるとは、その声を発する生きている肉体/命もまた封じられている」ということに気づいた、ということであります。

遠州弁を身に染み込ませ、標準語でそれを封じた者が、イダコを演じるために南部弁を身に染み込ませようとしたとき、どんなことが井上イダコに起きていたのか?

もちろん最初は南部弁ネイティブが読む「お岩木様一代記」をお手本に耳コピしていきます。しかし、いくら耳コピして真似しようとしても真似できない音があります。限界がある。微妙な、曖昧な、アでもオでもウでもエでもイでもないような複母音。周波数が違ってしかとは聴きとれないような語頭や語尾やひとつの単語のなかに紛れ込むくぐもった「ン」。とか、いろいろ。

それはひたすら真すれば、いつかはできる。といようなものではない。というのも、それを発音する筋肉を持っていないからです。南部弁で語るには、南部弁を語れる筋肉を持つ体に肉体改造しなければいけない。

私たちはうっかり忘れて果てているけれど、声は筋肉です。肉と血と骨のたまものです。肉と血と骨は生まれ育った風土のたまものです。

井上イダコは、そのことに気づいた。そして、浴びるように南部弁を聴いては必要な筋肉の動きを探り、筋トレをした。(というと、なんだかすごく近代的な物言いで、やや気になるが、それはそれとして)、ともかくも、そうして、南部弁を我が身に降ろしていった。

そのとき、標準語に縛られていた井上イダコの肉体/命は、南部弁に向かって解き放たれていったかのようでした。
それは同時に、かつてみずから封じようとした遠州弁に向かっても、いまいちど開いていくことだったのでした。

そのとき、井上イダコは、遠州弁の気配すら禁じられていたアナウンサー時代に自分が抱いていた感情が「怒り」であったことに、はじめて気づいた。ということだったのです。


ああ、標準語というのは、まさしく、声の世界における、近代の暴力性のあらわれのひとつなのだなぁ。
知らず知らず恐ろしいことだなぁ。
つくづくと思いました。


この声の暴力が、たとえば植民地や植民地の民に向けられたときの無惨を、私たちは知っているはずです。
朝鮮・台湾・南洋・満州はもちろん、東北でも、沖縄でも、それはそれは無惨であったことを。

そして、近代日本とは、その暴力性を忘れよう忘れようという潜在意識の中にある「忘却の共同体」であることも、ここ日本に生きる私たちは、実はよく知っているはずなのです。