権力について、真剣に問うことなどできるのだろうか。 という問いから第一章「コペルニクスと野蛮人」ははじまる。


この章にかかれていることは、冒頭に置かれたエピグラムの言葉に尽きるのだな。

「旅に出て、少しも心を改めることのない人があった」という話にソクラテスはこう答えた。「ありそうなことだ。その人は、自分を携えたまま旅をしたのだ」(モンテーニュ


権力をめぐる西欧的思考を再検討することもなく民族学が受け入れていることへの疑問をクラストルは呈する。

「権力の真理と存在は暴力の中にある」というのは普遍なのか?
強制力もしくは暴力が不在の時、権力について語ってはならないのか?

たとえば、アメリカ・インディアンの首長は「権力」を持たない。
あらゆる命令―服従関係の存在しない極めて多数の社会が一群をなしている。

政治権力が「萌芽的」「生まれつつある」「ほとんど発達していない」

「こうした語法は正確に言えば何を語り、それが語ることを、どのような場所から語っているのか」


つまり
「政治権力を対照すべきモデル、それを計測すべき単位が、西欧文明によって発展、形成された権力の観念によってあらかじめ構成されている」


そこでは、進化論的に未開(権力なき社会) ⇒ 文明(権力のある社会) という発想で「権力」は語られる。
(無条件に西欧は普遍であると考えるこの特殊な思考から脱せよ!)


◆クラストルいわく、

(1)権力のある社会と権力のない社会という二分ではなく、強制的権力と非強制的権力という二分で考える。


(2)強制としての政治権力(命令ー服従の関係)は、真の権力の唯一のモデルではなく、ひとつの特殊ケース、例えば西欧文化といったある一定の文化における政治権力の具体的現実化なのだ。これだけを他の異なる様式を説明する原理として特権化すべき科学的根理由はない。

(3)政治制度のない社会においてさえ政治的なものは現存し、権力の問題は提起される。権力なき社会は存在しない。



★ 強制的権力をもった社会は歴史社会であり、非強制的権力をもった社会は歴史社会である。


「政治権力とは何か。ということは、社会とは何か、という問いである」
「非強制的権力から強制的権力への移行はなぜ生じるのか。ということは、歴史とはなにか、問うことである


コペルニクス的転回が問われているのだ。というのも、現在に至るまで、ある意味で民族学は西欧文明を中心に、いわば求心的運動によって未開文化を回転させてきた。われわれにはパースペクティブの完全な逆転こそが必要である。