第二章  いったん頭から西欧的な権力の思考を外したところから問いを立てる

「権力行使の手段をもたぬ権力とは一体何なのか?」
「首長に権威がないのなら、首長は何によって定義されるのか?」



1.首長は「平和をもたらす者」である。
  (戦時にのみ強制力をもつ権力が出現する。戦時首長)

2.首長は自分の財物において物惜しみをしてはならない。
  (財を贈るために最も激しく労働に励むリーダー。報われない贈与)

3.弁舌に巧みな者のみが首長の地位を得ることができる。
  (語る者こそが首長である。誰に聞かれなくても語る。)

4.首長は多くの妻を持つ特権がある。
 (集団から首長への代価なき純粋な贈与。)


★2〜4は、「社会構造と政治制度の平衡を保つ贈与と対抗贈与の全体の規定」である。

★社会はまず、「財」と「女性」と「語」という交換の3つの基本的レベルによって規定される。

★ところが、それは互酬的な交換ではない。

 「財」「女性」「語」は交換の記号ではなく、純粋な価値物として把握されることになる。

 「首長」は、「彼において女性と語と財の交換が中断される者」と呼ばれる。
      
 「権力」とは「交換の断絶」として定立されている。
(これは俗な表現で言うなら、権力の座にあることの旨味などまったくない状態だろう)。
  
 

しかし、「法外な特権な付与されたひとつの役職が、その執行力において無力であるということは、どのように理解すればよいのだろうか」。


 「この社会では権力は何ものでもない」「集団がそれによって権威を根底から拒否し、権力の絶対的否定を表明している」


なぜ?

クラストルは言う。
「この権力の拒否に自らの全体を賭けているのは、文化そのもの、自然からの際の上限としての文化そのものに他ならない」

「文化は自然に対し常に変わらぬ深さをもった否認をつきつけはしないだろうか」
「拒否における同一性からわれわれは、これらの社会が権力と自然を同一視していることを発見する」
「文化は権力を自然の再出現として否定する」

          自然⇔文化  文化⇔権力 
             文化⇔自然・権力


「これらの社会は、権力の超越性が集団にとって死命を制する危険を内包していること、また、外部にあって自らの正当性を創出する権威という原理が、文化そのものに異を唱えることを、いち早く感じとったのだ」


「富とメッセージの供給者としての首長は、彼が集団に依存していること、彼の任務に下心がないことを不断に表明する義務を負わされていることを明らかにする以外の何事を行なっているのでもない」



ここで重要なことは、

こうして権力が否定されている状況、集団における「権力の外在性」と「言葉の孤立性」が対応すること。

権力の言葉が「返答を期待しない厳しい言葉」であることは、そこに「権力の優しさ」が表れているともいう。


なにより重要なのは、
「孤立の裡に発せられる首長の語りは、記号というよりは価値物として語に接する詩人の言葉を思わせる」ということ。


集団の枠の中の交換の記号から脱した言葉とは、それは実のところ、根底から世界を語る言葉/「神話」と接続するものであり、生きつづける世界にその力を日々注いでゆく」語り」/「詩」につらなってゆくものなのではないだろうか。  と、クラストルの解釈を、神話/詩/文学に寄せる思いも込めて、そのように受け取りたい私もいる。


つまり、集団の外に置かれた、集団の文化によって否認された「権力」の場に詩人がいるという、詩人こそが真の権力者(=無冠の権力者)である世界を、クラストルが差し出す「「権力なき首長」のイメージの中に見る(というより、見たがっている)私がいる。

クラストルは第二章をこう締めくくる。

「インディアンの文化、魅惑にみちた権力を斥けてやまぬ文化、そこでは首長の豊かさは集団にとって眼ざめたまま見られる夢なのだ。そして、逆説的性質をもった権力が、その無力さにおいて称えられるという事態は、文化が自らに示す配慮と、自らを超えようという夢想の表明そのものなのだ。神話のイマゴとしての部族のメタフォール、それがインディアンの首長なのである。」