いきなり 第七章 「言葉の義務」に飛んで読んでみる。「語ることはまずなによりも、語る権力を持つことだ」。これが冒頭の一文。

「君主であれ専制王であれ国家元首であれ、権力者は常に語る者であるばかりでなく、正統なる言葉の唯一の源泉なのだ」


「それは命令(戒律)と呼ばれ、命令を実行する者の服従以外のなにも望まない」

「あらゆる権力奪取はまた言葉の獲得でもある」


「国家を形成する社会」では言葉は権力の持つ権利である。
一方、部族の野生の生活/未開社会の宇宙/国家なき社会では、言葉は権力の義務である。

語る者としての首長の義務。


「首長の言葉は、耳を傾けられるべく発せられるのではない。首長の語りに注意を払う者はひとりもいない」

「未開社会、国家なき社会においては、権力は首長のもとにない。だからこそ、その言葉は、権力の言葉、命令の言葉たりえない」

「未開社会は、首長ではなく社会そのものが、権力の現実の場なのであり、したがって、分離された権力を拒絶する場なのだ」


「未開社会は、暴力こそ権力の本質であることを必然的に熟知している。権力と制度、命令権と首長を互いに切り離しておくという配慮もそこから生まれてくる。言葉の場こそ、こうした分離を確かなものとし、境界線を引くものの他ならない。


「首長の活動を、言葉の領分すなわち暴力の対極の位置に封じ込めること。それによって、部族社会は、あらゆるものを本来の場に留め、権力の軸が社会そのものに依存し、力の移動によって社会秩序がひっくり返らぬよう保証しているのだ」


言葉の人が権力者になることを妨げる保証。



※しかし、今の日本のように言葉そのものが殺されていったとき、言葉の人と権力者の親和性自体が全く無化されていったとき、権力はむきだしの暴力になるのだろう。言葉ではどうにもならない制御不能の暴力。