台湾の蘭嶼の先住民タオ族の社会では、子を持つようになると、「孫の父」「こどものお父さん」と呼ばれるようになる。作家シャマン・ラポガンは、「ラポガンの父親」なのだ。

土地とともに、そこにある生態系のなかの命として、循環のなかで生きるということ。そのつながりのなかの「命」の呼び名を、そこに見るような思いがしたのです。


蘭嶼の海洋民族たる先住民の暮らしも、この半世紀の間に、台湾政府の開発(漢化という名の近代の侵略? 介入? 略奪?)によって、海から離れ、山から離れ、生態系の環から切り離されてゆくばかりのなかで、シャマン・ラポガンは、若き日に島を出て、放浪して、そしてふたたび島に戻って来る、その道程はそのまま、命がこの世界との本来の生き方/つながり方を忘れてゆくばかりの近代を超えゆく新たな道の模索となる。

ひとりの台湾先住民作家の半生がそのまま、みずからをのみこんでゆく近代の腹の中で、近代を超え出てゆく歌/生態系への信仰を育んでゆく至難の道のりなのである。

日本の近代の縮図たる水俣で、原初の時を想い起こしつつ、やはり近代を超える歌を紡ぎ出した石牟礼道子を想う。

あらためて言う。
近代にさらされて、、近代に破壊されて、近代に断ち切られてきた、土と水と風のなかの生きとし生きる命たちのつながりが、近代を乗り越えて、もう一度繋がりなおそうとするときに、そこに、単なる近代以前の世界の復古とは異なる強靭な「生命」の歌/思想が現れてくる。

それは、つながる命の詩だから、必然的に、水俣も蘭嶼もわたしもあなたもつながっていくはずなのだ。
つながるための至難の時間、その彷徨いの旅路をゆく力をわたしたちが持つ続けていられるのなら。