訳者(廣瀬浩司)あとがきに、デリダの問いを噛み砕いてもらう。

★「歓待」を考えるための現代的な前提


「歓待」とは一般的に、国家、共同体、家庭などが、その戸口に到来した他者(外国人、異邦人、よそ者、客人など)を――無条件に、あるいは条件付きで――「迎え入れる」慣習や制度のことをいう。


国境や共同体のあいだをさまよう人々がたえず新たに生まれつつある現代社会において、「歓待の掟」の遺産をどのように引き継げばよいのか。


★一九九六年にデリダがあえて「歓待」をテーマに据えた背景には、いわゆる移民や難民の問題という緊急事態があったことはあきらかである。


★フランスでは一七九三年の憲法で「自由という大義ゆえに祖国を追われた外国人に庇護を与える」ということが明文化されていた(ただし、このように歓待が近代の法や「人権」に書き込まれると同時に、ナショナリズムと庇護の矛盾が始まることも付け加えておく必要がある)


★一九七四年以来、フランス政府は「移民の波を統御する」(中略)九二年以降、悪名高き「バスクワ(当時の内務大臣)法」などによって、移民の入国・滞在の規制が強化されていった。同時に、フランス国籍法の改正もおこなわれ、フランスで生まれた外国人の子どもが自動的に国籍を獲得することも見直されていく。政権交代・経済状態の変化・極右の台頭などの外的な状況の変化とともに、規制は緩和されたり、再び強化されたりするが、いずれにせよ確実なことは、この過程において、「サン・パピエ(滞在・労働許可証なき者)」と呼ばれる「不法」移民が生産されてしまったことである。



★いずれにせよ、歓待の問題は、たんなる法律の問題、政策の問題ではないし、内なる他者に寛容であれ、といったモラルの問題でもない。「サン・パピエ」の運動そのものにおいて、法、政治、倫理の条件が問われているのだ。

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折口信夫が「異人」の原初のイメージを八重山でつかんで戻ってくる、
そのとき、1923年9月1日、北九州の門司港にて、関東大震災の日を迎える。
9月3日夜、横浜上陸、そして4日正午から東京・谷中清水町の自宅をめざして歩きはじめる。

折口が戻ってきた近代都市東京で、異人たちはいかなる経験をしていたのか?
日本近代と異人。それを折口は「砂けぶり」でどのように歌ってみせたのか?