ぐるりと20数年の旅がひとめぐりして、気がつけば、生死のあわいに立つ者たちの声が私の中でこだましている。


それは「死者たちの声」とも言えるし、生きながら「死」を生きる者たちの声とも言えるし、いずれにせよ、私はますます死者たちとともにいるのだとつくづく感じたのが今回の旅。

宗像には、「死」を特別なこととして受け止めない、草木がだんだんと枯れていくように、人の肉体もおのずと衰えてやがて息も消えてゆく、そのようなものとして人の命を受け止めて、看取りの家を運営するコノミさんを訪ねていったのだった。


その看取りの家は、宗像市多禮の山と川と一面に広がる田畑に囲まれた昔ながらの家で、その家に7人の老人が下宿生のようにして暮らしていて、病気になってもたくさんのチューブにつないで、食は流動食を流し込むような、そういうことはしない。余計な治療はしない。病むのも自然な老いの現象、食べなくなるのは必要がなくなるから食べなくなる、食べられるうちは好きなものを食べればいい、そのような方針で、病院でチューブだらけで流動食で今にも亡くなるだろうと言われていたお年寄りがこの家に来て、ごくふつうの家庭料理を目の前に置かれたら、(ここではカロリー計算とかもしない)、いきなり箸を手に取って食べ始めて、みるみる元気になった、ということもあったのだそうだ、のどに詰まったり、肺炎を起こしたりするかもしれない、それでもいいんだ、死ぬまで食べたいものを食べるんだ、食べたくなくなったら食べないんだ、そうやってこの世を去っていくんだ、生と死は地続きなんだ、そんなことをあらためて感じなおした宗像・多禮、看取りの家、「ひさの」。


それは多禮という風土に包まれてこその自然な死の風景のようにも思われる。生も死も風土のなかにある。風土という原点。

宗像では、思わぬ方にもあった。私が会いたくて、なかなか会えずにいた方の身内の方が、私が慌ただしくあげたブログの記事を見て、多禮に来ていることを知って、わざわざ訪ねてきてくれたのだった。18年前の旅の始まりのころに、ひそかに旅の先達と仰いでいた方の現在を知ることができて、それは、私を旅のはじまりの頃の気持ちに引き戻して、(初心に還るということなのか、一巡りして、より豊かなはじまりを迎えたのか)、なにより、これからが本当の旅なんだという決意めいたものが胸に宿って、なにかこうひそかに涙ぐむような心持になったのでした。


宗像から、熊本を経て、鹿児島のハンセン病療養所、星塚敬愛園を訪ねた。こちらは9年ぶりのことだった。
石垣島からやってきた水牛老師とともに、八重山からの入所者の家を訪れ、水牛老師の歌う八重山の歌をみなで聞く。9年前と同じように。
ここでは、見えない方々の気配を濃厚に感じて、死者たちとともに生きているんだと言っていた詩人谺雄二のあの豪快な声を思い起こし、
自分が聞くべき声、ともに生きるべき人々のことに思いをはせる、そんな時間を過ごすことになった。


そろそろ飛行機の時間だ、もっとしっかり書こうと思ったのに、中途半端な走り書き。

つづきは、また東京で。