石文化公園のことを考えていたら、宮沢賢治のことを思いが飛んだ。「宮沢賢治の鉱物幻想」を読む。石を思いながら再読する賢治の詩の言葉に無闇に掻き立てられる心。


鎌田東二によって、石に神を感じ取って山中を渉猟する山岳修行者、修験者と同じ感覚を持つ者として賢治は語られる。


その文脈のなかで引用される「石っこ賢さ」の言葉の数々。



 わたくしたちは、氷砂糖を欲しいくらゐもたないでも、きれいにすきとほつた風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。
 またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびろうどや羅紗や、宝石いりのきものに、かはつてゐるのをたびたび見ました。
 わたくしは、さういふきれいなたべものやきものをすきです。
 これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらつてきたのです。
 ほんたうに、かしはばやしの青い夕がたを、ひとりで通りかかつたり、十一月の山の風のなかに、ふるへながら立つたりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんたうにもう、どうしてもこんなことがあるやうでしかたがないといふことを、わたくしはそのとほり書いたまでです」(『注文の多い料理店』の序)



鎌田東二は言う。
「自然の多声に聴き入る感応力」「もっとも微細で幽けき霊感や直観を通して初めて認識可能なリアリティー」。
そう、「石っこ賢さ」の声にはリアリティーがあるのだ。



 わたくしといふ現象は
 仮定された有機交流電燈の
 ひとつの青い照明です
 (あらゆる透明な幽霊の複合体)
 風景やみんなといつしよに
 せはしくせはしく明滅しながら
 いかにもたしかにともりつづける
 因果交流電燈の
 ひとつの青い照明です
    (『春と修羅』 序の詩)



なるほど、
わたしは「あらゆる透明な幽霊の複合体」であります、と、私も呟いてみる。

「多層的な自己意識」、有情無常一切を含む他者との「相関関係」と鎌田東二




 月は水銀 後夜の喪主
 火山礫は夜の沈殿
 火口の巨きなゑぐりを見ては
 たれでもみんな愕くはずだ
 (風としづけさ)
 いま漂着する薬師外輪山
 頂の石標もある
 (月光は水銀 月光は水銀)
     『春と修羅』より「東岩手山」の冒頭



これは山岳修験者 賢治の声。



 だまつてじつと眼を見合はせてたつてゐれば
 だんだん向ふが人の分子を喪くしてくる
 鹿のトーテムだ
 立派な山伏上りの天狗の感じもたしかにある
    (「その父と会ふ」)




 感ずることのあまり新鮮すぎるとき
 それをがいねん化することは
 きちがひにならないための
 生物体の一つの自衛作用だけれども
 いつでもまもつてばかりゐてはいけない
      (「青森挽歌」)




「きちがひにならないための」  この感覚はひりひりとわかる。
なぜかこの詩の一節に、坂口恭平の『現実宿り』以降の一連の小説を想ったりもする。



ふたたび鎌田東二

「石と、輝く石である星、そしてその世界を伝える媒体としての風や水銀。その語りを耳にするとき、おのずとエーテル体が強められる。「風とゆききし 雲からのエネルギーをとれ」(農民芸術の製作)とうたう人の気息や生命の律動が、自然の多声の「法楽」のままに吹き込まれると感じとれるからだ。
「近代科学の実証を求道者たちの実験とわれらの直観の一致に於て論じたい」と、あるいは、また「神秘主義は絶えず新たに起るであらう」と「農民芸術概論要綱」で謳いあげ、予言するとき、その神秘主義は宗教と科学と芸術を労働と遊びと生活において総合し実現する四次元感覚の生の様式であった」



「四次元感覚の生の様式」。  この表現は直感的にわかる。すごくよくわかる。

四次元感覚の生の様式から発せられる声、言葉、それもまたリアルに心身に響いてくる。


近代を超えゆく声、言葉もまた、四次元感覚からやってくるのだと、これは私の確信。
近代のはじまりの真っ只中を生きた賢治の四次元感覚とはまた違う、近代の終わりに生きて、近代を突き抜けたいわれらの四次元感覚。