これは宮沢賢治『春と修羅 第2集』 「産業組合青年会」からの言葉だ。
同じ言葉が、「作品三一二番」にも現われる。
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作品三一二番
正しく強く生きるといふことは
みんなが銀河全体を
めいめいとして感ずることだ
……蜜蜂のふるひのなかに
滝の青い霧を降らせ
小さな虹をひらめかす
いつともしらぬすもものころの
まなこあかるいひとびとよ
並木の松の向ふの方で
いきなり白くひるがへるのは
どれか東の山地の尾根だ
(祀られざるも
神には神の身土がある)
ぎざぎざの灰いろの線
(まことの道は
誰が考へ誰が踏んだといふものでない
おのづからなる一つの道があるだけだ)
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これを山尾三省はこう読み解く。
最初の光は銀河からやってくる。
次の光は神からやってくる。
三つ目の光は道から来る。
それは一つの真理を三つの側面から呼び上げたのだと。
二番目の「神」について、山尾三省の言葉。
「私達一人一人の本質は神である。私達一人一人は一個の神である。祀られる神もあるだろうが、祀られざる神もある。祀られようと祀られまいと、私達の本質は神であり、神はその身土を持つ。身土とは場のことである。土の上に立った人間の姿を身土と呼ぶのであるから、それこそはまさしく野であり、場である。絶対性を内蔵する絶対相対性原理である。すでに神で在る以上、祀られる必要はない」
この感覚を初めて私に教えてくれたのは、石垣島の、自称アキメクラの、三線おばあナミイだった。まるであたりまえのように、ナミイは、ひとりひとりの頭の上の神を語り、鳥獣虫魚草木に宿る神を語り、そのうえに、「あんたの頭の上には神がない」と言い放ったのだった。
それが16年前のことで、それから私はわれしらず神探しの旅に出て、そしていまこの山尾三省の言葉が水のように空気のように私の中に入ってくる。
そして、今福龍太さんがあとがきに引いている山尾三省の詩のこの言葉。これは風の言葉だ。
ぼくはね
かつて生まれたこともない存在だから
死ぬこともない
これを今福さんは不生(生じることも滅ぶこともなくつねにそこにあること)の風と言う。
そして、不生の土に生きる、不生の夢を抱く者として、人は在る。
そのような人として、私も在る。
ただ「いま」「ここ」をかけがえなき永遠として生きる一個の祀られざる神であることを
夢みる者として、
その夢に届かぬ距離を修羅として彷徨う者として、
人は在る。
そのような人としての私が在る。
そんなことを静かな心で思う夕べ。
今夜はクリスマスだったな。