「平成とは「戦わない国家」の憲法的規定を「祀らない国家」の憲法的規定とともに空文化していった時代であるのだ」(子安宣邦の論考より)

戦う国家は、祀る国家であるということ。

戦うために、「祀ること」もまた中央集権化した国家であるということ。

 

近代に於て、日本人が忘れさせられた最たるものとしての無数の「小さき神々」(風土の神々)を想い起こすこと。

 

 

国家神道の現在とは、歴史から神道的国教の理念を呼び戻しながら国家と宗教祭祀との関係が見直され、再構築されようとしている時である。日本国憲法の原則  [3]から状況主義的で無原則な逸脱が戦争と宗教をめぐる憲法規定にかかわってなされていることは重い意味をもっている。そのことは近代国家における戦争と宗教祭祀とが切り離して考えることのできない問題であることを示しているのだ。さらにそのことは国家主義軍国主義に塗り込められた「国家神道」像を彼ら神道人がなぜ虚像として倒壊させねばならなかったかをも教えている。国家神道の現在をこのように認識するならば、日本という近代国家が戦争と宗教祭祀とを国家の存立基盤にもちながらいかに形成されていったかが問われねばならないだろう。」

 

 戦争と神道的祭祀とを国家の存立基盤としながらなされていった日本の近代的国家形成を、私は国家それ自体に聖性をもたせながら「戦う国家が同時に祀る国家」としてある近代国家の日本的形成としてとらえていった。したがって「戦わない国家」(憲法第9条)「祀らない国家」(同第20条)として自己規定した日本国憲法は、「戦う国家が同時に祀る国家」であった帝国日本の自己否定をいうだけではなく、憲法前文  [4]がいうように世界史的理想とその実現の努力とを自らに課しているのである。

 

1970年に村上重良は国家神道復活の動きに接し、怒りを新たにする形で『国家神道』(岩波新書、1970)を書いた。その『国家神道』の「まえがき」を村上は「国家神道」を包括的に定義する次のような言葉でもって書き出している。「国家神道は、二十数年以前まで、われわれ日本国民を支配していた国家宗教であり、宗教的政治的制度であった。明治維新から太平洋戦争の敗戦にいたる約八〇年間、国家神道は、日本の宗教はもとより、国民の生活意識のすみずみにいたるまで、広く深い影響を及ぼした。日本の近代は、こと思想、宗教にかんするかぎり、国家神道によって基本的に方向づけられてきたといっても過言ではない。」

 

 

 

 

 

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