金時鐘「私の八月」より  (メモ)

国家と国民と植民地の民と。

いまいちど、自分自身の来歴を考えるために。

 

終戦”時、「戦勝国に準ずる解放された国民」とみなされた私たち在日朝鮮人は、一九四六年十一月五日と十二日の連合軍総司令部からの一片の声明「まだ本国に帰還していない者は日本国籍を保持するとみなされる」によって、いきおい占領される国民になり代わってしまいます。日本政府はこのGHQ通達を楯にとって、当時六百余りもあった朝鮮人民族学校を問答無用に接収しました。

 

祖父が神奈川朝鮮学校の創立に関わっていたことに思いを馳せつつ。

 

 

そればかりか、日本国籍を保留しているはずの在日朝鮮人を対象に、明治憲法が終息する最後の日の一九四七年五月二日(三日は憲法制定日ですね)、あろうことか昭和天皇最後の勅令二〇七号によって「外国人登録令」が発布されます。今日の「出入国管理令」の大本であります。 

 

※この時点では「日本国民」と見なされていた在日朝鮮人を、退去強制を含む「外国人管理」の下に置いた。つまり、「日本国民」として日本の司法の統制下に置きながらも、「選挙権」を停止し、実態としては「外国人」として管理するという、日本政府にとっては都合の良い、ねじれた位置に在日朝鮮人は置かれた。また外国人登録には、出身地の意味で(国籍という意味ではない)「朝鮮」という語句が記載された。

 

 

※1952年4月19日 

「平和条約の発効に伴う朝鮮人、台湾人等に関する国籍及び戸籍事務の処理について」(昭和27年4月19日付法務府民事局長通達」


サンフランシスコ平和条約発効により、旧植民地出身者は内地の戸籍に組み入れられたものは日本国籍、旧内地出身者で朝鮮籍に組みい入れられたものは朝鮮籍に自動的に区分けされた。いずれにしろ、本人の意思による国籍選択はみとめられなかった。

 

 

※1965年12月17日 

「日韓法的地位協定実施に伴う出入国管理法特別法」(昭和40年法律第146号)公布(1966.1.17施行)
韓国籍の「法126-2-6該当者」とその子孫に永住資格(協定永住)を許可。

  (これは私の法的地位に関わること。)

 

◆そして朝鮮半島は?

 「四・一九革命」から、朴正煕軍事クーデターへ。

一九六〇年、ブルボン王朝とまでいわれた李承晩政権を学生たちが百八十三名の若い命を散らして倒し、李承晩という暗愚な大統領を国外に追放します。

 

李承晩政権が倒れるや否や、全く地の底から声が噴きあがるように、「行こう北へ、来たれ南へ」という呼号、呼び交いが沸き立って、軍事境界線板門店で、南の学生・青年・労働者代表と北の学生・青年代表との会談が開かれるようになり、軍事境界線をめざして潮のような行進が始まります。明日が南北の学生青年たちの大同の会議が開かれるという日、会議前日の未明、朴正煕による軍事クーデターが起きます。 

 

韓国の兵隊は、一九五三年の「韓米相互防衛条約」によって、アメリカ軍司令官の許可なしには一兵たりとも動かせないきまりになっているのですが、朴正煕はあれだけの軍隊を動かして、ソウルを制圧し、民主人士をみな検束していきます。これは、歴然とアメリカがさせた軍事クーデターであります。