山尾三省『野の道』は、この一文からはじまる。
「私は、野の道を歩いてゆこうと心を決めて、今、この野の道を歩いている」
この「野の道」とは何なのか?
単純に自然の中で生きる、というような話ではないことは確かだ。
「野の道」は、賢治の「オホーツク挽歌」にもつづいているようである。
宮沢賢治「オホーツク挽歌」のうち、「青森挽歌」から抜粋
こんなやみよののはらのなかをゆくときは
客車の窓はみんな水族館の窓になる
あいつはこんなさびしい停車場を
たつたひとりで通っていつたらうか
どこへ行くともわからないその方向を
どの種類の世界へはひるともしれないそのみちを
たつたひとりでさびしくあるいて行つたらうか
黄いろな花こ おらもとるべがな
たしかにとし子はあのあけがたは
まだこの世かいのゆめのなかにゐて
落葉の風につみかさねられた
野はらをひとりあるきながら
ほかのひとのことのやうにつぶやいてゐたのだ
すべてがあるがごとくにあり
かゞやくごとくにかがやくもの
おまへの武器やあらゆるものは
おまへにくらくおそろしく
まことはたのしくあかるいのだ
みんなむかしからのきやうだいなのだから
けつしてひとりをいのつてはいけない
ナモサダルマプフンダリカサスートラ (南無妙法蓮華経)
これは、賢治のサガレンへの旅(=死者とともにある旅)の呪文。
わたくしの感じないちがつた空間に
いままでここにあつた現象がうつる
それはあんまりさびしいことだ
(そのさびしいものを死といふのだ)
「野の道を歩くということは、野の道を歩くという憧れや幻想が消えてしまって、その後にくる淋しさや苦さとともになおも歩きつづけることなのだと思う」
そして、これは、賢治とともに野の道をゆく山尾三省の声。
「祀られざるも神には神の身土がある」
これは山尾三省が耳傾ける賢治の声。
「野の道とは、一体感を尋ねる道であると私は思っている。一体感とは、包むことと包まれることの自我が消え去り、静かな喜びだけが実在する場の感覚のことである」
一体であることを求めつつ、一体ならぬ「私/個我」を滅することのできぬ修羅もまた、そこにいる。