野の道/ 宮沢賢治は、法華経を唱えつつ死への道を歩いている。 メモ

野の人としての、法華経信奉者としての賢治。

 

死を意識したときに、ようやくたどりつく「常不軽菩薩品」の境地

あるひは瓦石さてはまた

刀杖もって追れども

見よその四衆に具はれる

仏性なべて拝をなす

 

菩薩四つの衆を礼すれば

衆はいかりて罵るや

この無智の比丘いづちより

来りてわれを礼するや

 

我にもあらず衆ならず

法界にこそ立ちまして

たゞ法界ぞ法界を

礼すと拝をなし給ふ

 

窮すれば通ず

窮すれば通ず

さりながら

たのむはこゝろ

まことなりけり

こゝろのみにぞ

さちもこそあれ

こゝろひとつぞ頼みなりけり

 

ー後略ー

 

 

死後残された手帳に、「経埋ムベキ山」として記された32の山々の名。

まるで「六部」のようだ。法華経を山に埋めて歩くことを願っていたんだ。

 

六十六部の略で、本来は全国66か所の霊場に一部ずつ納経するために書写された66部の『法華経(ほけきょう)』のことをいったが、のちに、その経を納めて諸国霊場を巡礼する行脚(あんぎゃ)僧のことをさすようになった。別称、回国行者ともいった。わが国独特のもので、その始まりは聖武(しょうむ)天皇(在位724~749)のときとも、最澄(さいちょう)(766―822)、あるいは鎌倉時代源頼朝(よりとも)北条時政(ときまさ)のときともいい、さだかではない。おそらく鎌倉末期に始まったもので、室町時代を経て、江戸時代にとくに流行し、僧ばかりでなく俗人もこれを行うようになった。男女とも鼠木綿(ねずみもめん)の着物に同色の手甲(てっこう)、脚絆(きゃはん)、甲掛(こうがけ)、股引(ももひき)をつけ、背に仏像を入れた厨子(ずし)を背負い、鉦(かね)や鈴を鳴らして米銭を請い歩いて諸国を巡礼した。[藤井教公]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

 

 

そして、賢治は「虔十」であることを夢見る。

虔十とは、私達すべての中に住んでいた至福の別名である (山尾三省) 

 虔十の至福を失いつづける人間のひとりとして、

山尾三省は「野の道」をゆくことのリアリティを考える。

 

私が野の道と呼ぶものは、太陽を最大の価値とし、太陽の下、土の上で

全人類が隣人ごとに民族ごとに親しみ合い、交流し合って暮らす、小さな技術を持った新しい道のことである。 

 

私の希望は国家にはなく、私達の太陽の下、土の上の野の生活にある