きのう、国立のギャラリービブリオで朗読したことば。水が流れるように。

タブラに捧ぐ  201968日@国立・ギャラリービブリオ

 ~『太陽と月とタブラの申し子、ディネーシュ・チャンドラ・ディヨンディを唄う狂犬が吠えると』に寄せて~

 

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はじまりは、狂犬の、愛してるよ! といういかがわしい呼び声だったのでした、

わたしは愛を知らない妄犬で、

知らないことにはこわごわ近づく愚かな犬でもありましたので、

気づいたときには、どうやら狂犬の思う「ツボ」であったようなのです、

 

その「ツボ」というのは、運命の落とし穴でもあるけれど、ディネーシュのタブラのことでもあるのですよ、

 

このタブラはなによりもおそろしいツボ、

だってそれはこの世をめぐって流れる大いなる命の水の源なのですから、

 

ディネーシュがタブラを叩くでしょう、撫でるでしょう、

そしたらこんこんと水が湧き出て、

気がつけば、狂犬も妄犬も誰もかれもが、深い泉の中でゆらりゆらりと揺れて浄められて、

生まれたばかりの裸の一匹の子犬たちのような心持になって、

うわーん、ゆわーん、と歌いだしてしまうような、

そういう空恐ろしいことが起きるわけです、

 

妄犬が妄想するに、かつてすさんで暴れる文字どおりの狂犬だった一匹の犬が、

初めてタブラの主のディネーシュと街ですれちがったとき、

狂犬はきっと、「この水をのみなさい」という声をわれ知らず聴いたはずなのです、

そのとき狂犬は渇ききっていたはずなのです、

 

渇きは厄介です、

 

愛欲を呼ぶこともある、

邪悪な力を呼び込むこともある、

しかし、幸いなるかな、

狂犬がすれちがったのはタブラから湧きいずる浄らの水でした、

 

美しい水の雫が、狂犬の心にポタンと落ちて、スー―――ッとしみこんでいった、

渇いて固まって閉じていた心の栓がポーーー―ンと解き放たれて、

きっとそのときからなんだよね、狂犬がそれはもう狂ったように歌いだしたのは、

 

歌はもう1000年も前から狂犬の心の底で疼いていたものだから、

おおいに歓び、涙を流し、潤んだ水となってこの世へとほとばしり出て、

 

愛しているよー、愛しているよー、

と無垢な子犬のように叫ぶんです、

 

渇いているやつはいないかー、淋しい子はいないかー、

と柔らかな水の声で呼びかけるんです、

 

つまり、ディネーシュのタブラから湧きいずる水と、狂犬の心の底の秘められたる水が出会ったときに、こんな超常現象も起きたわけで、

 

一方、妄犬は、ディネーシュのタブラのあの流れる水音の響きを思い出すたび、

いのちの水の泉でゆらゆらと、生まれる前の夢を見ているような心持になるのです、

 

ねえ、知ってる? 

タブラが教えてくれたんだけどさ、

心は光より速いんだって、

愛もきっと光より速いんだよ、

あんまり速すぎるから、わからなくなっちゃうんだよ、

心のことも、愛についてもね、

だからね、

あんまり速すぎて渇いてしまう私たちの心や愛には、

水が必要なの、

こんこんと湧きいずる、

生まれたばかりの、

最初の太陽の光を浴びたばかりの、

浄らかな水が必要なのよ、

それさえわかれば、きっと間違えない、

きちんと狂って、

豊かに妄想する、

立派な犬ですよ、

わたしたちは、

 

狂犬が言うことにはね、

よい犬と言われるひとは、「ひと」の成分が少なくて、

悪い犬と言われるひとは、「ひと」の成分が半分以上でできているんだそうです、

 

それはきっと正しい、

犬というのはね、心の底から信じることを知るもののことだからね、

 

ねえ、みんな、はやく犬になっちまえよ、

そして、ほら、ディネーシュのあのタブラの水をのんで、

うれしくなって、うわんうわんと歌ってくれよ、

 

 

歌が心の底から湧いてきたなら、そうして歌と歌とを交わし合ったなら、

そのときこそ、きっと、みんな愛がわかるんだよ、

と、妄犬はいまではそう信じているのだけど、

 

もしかしたら、ディネーシュのタブラにたぶらかされているのかしら、

いいのよ、たぶらかされても、水を得た命は歓びだから。

 

ディネーシュのタブラからこんこんと水の湧く、

 

「ひとと あなたと うたに なりましょう」

 

 

 ディネーシュと狂犬