『分解者たち  見沼田んぼのほとりを生きる』(猪瀬浩平 生活書院)  メモその1

水俣で野生集会を持つ前に、『分解者たち』を少しずつ読む。

 

見沼田んぼに追いやられてくる「ごみ」、「排泄物」、「遺体」、「障害者」、「鶏や乳牛などの家畜、様々な生きもの」、そして「農的営み」。

それは「首都圏/東京という歪に肥大化した身体の肛門から排出されたものたち」である。

 

そして、私が見沼田んぼに惹きつけられるのは、それらの存在があるからだ。排出されたものたちが、思わぬ形で出会い、ぶつかり、交わる、すれ違う。そこでものとものが交わり、熱が生まれる。 

 

土壌に生息する生きものたちのはたらきのように、お互いに連動しながら、時に対立しながら、耕作放棄地だった場所で活動する。新しい価値を生み出すのではなく、すでにあるものを編みなおし、これまでつながっていなかったものをつなげ合わせる。(中略)朽ちた場所が別の営みの現場になる。植物遺体や動物の死骸、糞がダンゴムシによって摂食・粉砕されるように。そしてダンゴムシの糞と粉砕した残渣がミミズやセンチュウの餌になって、やがて土壌を団粒化させるように。そうやって首都圏の肥大化を鎮め、朽ちた部分をその先も生きるものへと開く。

 

本書では、このような運動を「分解」呼ぶ。

 

「分解」とは「循環」でもある。

藤原辰史は、資本主義社会が右肩上がりの発展という物語を紡げたのは、その土台に持続的な循環システムがあったからだと言う。

それを掘り崩して、掘り崩していることすら気づかず、あるいは、お金を産まないものとして価値を与えず、闇に押し込めていくのが、資本主義社会である、とすれば、

 

この「分解」と「循環」を資本主義社会の「最暗黒」からいかに「光」に反転させるか?

 

循環する命として、市場の論理を突き抜け、いかに資本主義社会を越えてゆくか?

 

本書で語られるのはそういうことなのだと、いったん確認して、さらに読み進める。