ゼノ神父とマリア・北原怜子の「蟻の街」(バタヤ/屑拾いの街)をとおして、「分解」を語る。
各々気ままな行為とも言うべき自己の快楽の集合体が、なぜか、全体として生態系ならびに人間社会のメンテナンスに向かうことが、分解の世界を貫く原理なのである。
警察権力に監視されるしかないルンペン・プロレタリアートとして、バタヤたちのなかに、マルクスは革命の主体を見出すことをしなかった。それは正しい。バタヤは革命をしようとはしない。思想信条は関係なく、生活させてくれそうな人間の側につく。だが、これはバタヤのくらしの問題だ。バタヤの世界の作用と構造は、革命とは異なる世の中の変わり方を胎蔵している。各個人の恥しさを超えた興奮と忘我が集まることで、各個体の行為を根底から見守り、助けるのである。
分解の世界を生きるために、
「屑拾いのマリア」を探すな、屑を拾え、屑を喰え、
みずからが屑を喰う存在であると認める恥ずかしさを捨てよ。