『分解の哲学  腐敗と発酵をめぐる思考』(藤原辰史 青土社)   メモ3

生態学的な言説にはいつもナチズムの罠が潜んでいるのである。」

 

「分解」を語る時に、忘れてはならぬ問いとして、著者が繰り返し語ること。

 では、ナチズムやスターリニズムを振り切ったうえで、なおも生命と人間社会の多元的で連鎖的なふるまいをとらえるためには、どうすれば 良いだろう。「国民」とか「一体性」といった粘着性を取り除きながら、他方で、各所と接続可能な、いわば身体を飛び出た神経回路的な概念が必要であることも一方で感じた。さもなければ、たちまち労働という荘厳な生命循環過程を重視して、国民の統一をはかったナチスの罠にはまってしまう。

 この罠は、ちまたの論議が「生命」や「循環」や「自然」という合言葉に疑いなく寄りかかってしまうことで社会全体の罠に化ける。

 

生命の偉大さに身を捧げる、森羅万象の海に身を委ねる、諸行無常の営みとして自分をむなしゅうする、というような超越的なものへの礼賛とは異なる回路で、自然界と人間界を統合的に語ることはできないだろうか。

 

そこで、糞虫登場。スカラベは、古代エジプトでは死と再生の聖なる虫だ。

ファーブルがどれだけ、糞虫の美しさを語ったことか。

糞虫をとおして分解の世界を語るファーブルは、排泄を、食事を作ることとほとんど境界線の引けない行為として描く。消化器官は物質循環の通路になる。

(なにしろ、糞虫は糞を食べるそばから、黒い糸のような糞を排泄していく。この黒い糸は微生物たちの食べものだ)。

 

近代空間の硬直した文脈に限定される排泄行為から、分解現象のなかで、よごれやけがれなどの意味がはぎ落とされ、「機能」を失い、「無為」となったものが、生きものたちのあいだを、たわむれのようにゆらゆらと動く。『昆虫記』はけっして昆虫だけを描いているわけではない。

 

ファーブルの語る「糞虫」は、関東大震災の混乱の渦中で権力によって殺されたアナキスト大杉栄の心をとらえ、大杉は仏語の原書からの日本語訳を試みる。「ファブル昆虫記」。その奥付は1922年8月22日。

大杉がそこに書いた序文を紹介する藤原辰史の心意気。『分解の哲学』の第5章は、そのためにあったのか! と思いましたよ。

大杉栄曰く、 

糞虫と云ふのは、一種の甲虫で、牛の糞や馬の糞や羊の糞などを食つてゐるところから出た俗称だ。糞虫が、さう云つた糞を丸めて握り拳大の団子を造って、それを土の中の自分の巣に持ち運ぶ、其の運びかたの奇怪さ! 又、一昼夜もかゝつて其の団子を貪り食つて、食ふ尻から尻へとそれを糞にして出していく、其の徹底的糞虫さ加減! (大杉栄

 

糞虫さ加減! 糞虫性! それは、

「大杉を監獄に閉じ込めなくてはならないほど不自由な社会に対する抗いの言葉なのかもしれない。大杉が思想の根拠とした「本能」を上から押さえつけることでしか発展しない社会の構造への批判かもしれない」(by  藤原辰史)

 

糞虫性! そこには「美」がある。「それは、中央集権的な機能美ではなく、拡散的で非統一的な作用が入り乱れる美である」。

(「機能」。それは生産性へとつらなる思考なのであろうが、「機能」を語れば、おのずと近代に、ナチズム的全体主義に、からめとられてゆく。)

 

あらためて、藤原辰史の考える「糞虫性」の美しさにあふれた「分解」について。

「分解」は一個体では完遂できない。分解する側の複数のアクターたちの協力関係のみならず、分解する側と分解される側の暗黙の協力関係が前提である。主体的でも客体的でもない「分解」というはたらきの担い手が、刻一刻と変化していくというふうに考えるほうが、生物界をより豊かにとらえることになるだろう。