メモ「海女抗日闘争」・ 出稼ぎ  

1932年 済州島 海女たちが頭にはしっかりと手拭を巻き、背にはつつましくも食料を背負い、手にした海女仕事の道具のホミとピッチャンを振り上げ、万歳と叫びながら行進した。

「私たちの要求に剣で応じるならば、私たちは死をもって応じる」

 

時はさかのぼる。

 

1876年 朝鮮の開国以降、日本の漁師たちが潜水業者を使って済州島の海であわび等を乱獲。

一隻の日本の漁船が一日当たり600個のアワビを採る。済州の港々の日本の漁船は3~400隻。

 

1890年代 済州島の海産物の収穫量は著しく減り、漁場は急激に疲弊してゆく。

あわび、てんぐさ、かじめ(ヨードや火薬の原料になる)等々が乱獲されたため、海女たちは済州の海で潜ることができなくなってゆく。海女たちは窮余の策として出稼ぎに出るようになる。

 

1895年 慶尚南道影島に最初の出稼ぎ。やがて朝鮮半島北部、日本、大連、青島、ウラジオストクとその行先は広がってゆく。(ウラジオストクでは昆布を採る。)

 

※済州海女の出漁地域は、大日本帝国の勢力圏だったことに留意すること。

 

1903年 日本への出稼ぎはじまる。 

1910年代 出稼海女2500余名

1912年頃 青島に寒天工場

1930年代 出稼海女4000余名 

  ※ 1929年 出稼海女3500名 漁獲高50余万円 

              ⇔ 島内海女7300余名 25余万円 

  ※ 1934年 出稼海女5000名超 漁獲高70万円

              ⇔ 島内海女5300名  27~8万円      

  

 

  ※ 出稼ぎは毎年4月~9月 

     

        ※ 出稼ぎの方が収入は多い。それでも、出稼先の地方の漁民との紛争、

    横暴な商人に苦しめられる。

 

釜山・影島を根拠とする商人たちは日本の貿易商の手先となり、海女の募集者兼監督者として、毎年陰暦正月~2月頃になると済州島にやってきて、海辺の村をまわり、必要な数の海女を募集するにあたって、前渡金の名目で前貸しをして雇用契約を結んで支配下に置き、出稼ぎで所得があれば、前貸しの金を高利で回収するのはもちろん、採集した海産物は商人を通じて販売する際に、100斤ならば90斤に値を叩いて搾取したため、海女たちの恨みの声も高かった。そのため、海女の中には商人とは関係なく、独自に出稼に出る海女団があったのだが、この海女たちに対しては現地で商人たちがさまざまな妨害工作に出たりもした。(済州島誌 上)

     

日本の貿易商が安く買い叩いた海女たちの収穫物は、日本人が経営する海藻会社に渡った。

 

また、海女たちが出稼ぎをするには船を使うのだが、船には必ずブローカーがいた。ブローカーは海女と商人との間で仲介料を取ったりもした。

つまりは海女たちは、苦労して採った海産物を正当な価格で売ることができず、間に入ったさまざまな勢力によって搾取され、手にする現金はあまりに少なかった。

 

1920年 海女を守るために海女組合の誕生  

1920年代半ば 組合の御用化 全南道知事が組合長に。

 

※ 畜産組合、林野組合、道路保護組合、漁業組合、海女組合等々、すべての組合が御用組合と化して、生産物の流通に介入、中間搾取を行った。

※たとえば、出稼ぎ地域で海女たちが採取した海藻類はほとんどが釜山の朝鮮海藻株式会社を通して販売流通するのだが、海女たちの全収益の50%が手数料として会社のものになり、18パーセントほどが海女組合の手数料となる。さらに組合費、船頭の賃金、ブローカーへの謝礼が差し引かれる。その結果、海女の取り分はほんの20パーセントほど。

※業者への販売価格も、予め業者の入札で決まっている。入札業者が独占業者となり、市価の半額程度で買い取られてしまう。

 

植民地支配下の収奪と搾取。

海女闘争を植民地下の抗日運動、民族意識涵養の社会運動の文脈でとらえる。

1920年代 女子青年会運動、女子夜学運動 ← 弾圧

1930年代 地下組織としての革友同盟。社会主義を学ぶ読書会。教育の機会を持たない階層への啓蒙。海女たちの夜学。

 

海女闘争 中心人物のひとり 金玉連の回想

私の生涯で大きな転回点となったまことに良い機会を私は得ました。村に夜間学習所ができて、私は夜の時間を使い、反対する両親を振り切って逃げるようにして夜間学習をはじめて、それが2年間続きました。夜学所は一方では日本の植民地の時期に独立運動の一環として意識ある若い男性知識人を中心に教育をするようになり、またもう一方では、女性たちに学びの機会を与える契機となった。当時は直接的な独立運動はあらわになれば弾圧されるので、間接的で長期的に独立のための準備として全国的に教育という方法で啓蒙しました。(済州海女抗日闘争記念事業会 1995)

 

当時、海女抗日運動の先鋒は、済州青年知識人たちが開いた夜学を通して民族意識と抗日意識を育んだ夫春花(25歳)金玉連(23歳)夫徳良(23歳)など年若い女性たちが中心となった。

 

1930年代 御用組合である海女組合への海女たちの不信。組合側のさまざまな不正。

      海女たちの数次の抗議の黙殺。

 

1932年1月7日 ハド里の海女300名が細花里の市場の日を利用して、本格的な示威行動に出る。彼女たちはホミとピッチャンを手に、肩には食べ物の包みを掛けて、ハド里から細花市場まで示威行進をし、そこに近くに村の海女たちも加わり、市場にいた数千の群集の前で集会を開いた。そして海女組合本部へと行進。(第一次示威)

 

1932年1月12日 細花市場の開かれる日に再びの示威。市場に巡視に現われた新任の済州道司を取り囲む。警官と駐在所員たちがりまわし、海女たちを威嚇する。剣には負けないと叫ぶ海女たちの要求に済州道事が対話の要求に応じる。

 

➯数日後、警察が示威中心メンバーを逮捕しようとすると、海女たち4~500名が警察車両へと押し寄せ逮捕者の奪還。警察側は武双警察隊を編制、海女たちと衝突の混乱の中で、主導メンバーの衣服にインクをつけ、それを目印に逮捕にいたった。

 

1931年から1932年1月まで繰り広げられた海女抗日運動はクジャ面、ハド里、細花里、ヨンピョン里、チョンダル里、ソンサン面シフン里、オジョ里等の海女をはじめとして、延べ17130名が参加した。238回にわたる集会、並びに示威を主導した体系的かつ組織的運動だった。

 

 

「海女歌」 康寛順作詞

 

우리들은 제주도의 가이없는 해녀들
비참한 살림살이 세상이 안다
추운 날 더운 날 비가 오는 날에도
저 바다 저 물결에 시달리는 몸

아침 일찍 집을 떠나 황혼 되면 돌아와
우는 아기 젖 먹이며 저녁밥 짓는다
하루종일 해봤으나 버은 것은 기막혀
살자하니 한숨으로 잠 못 이룬다

이른봄 고향산천 부모형제 이별코
온가족 생명줄을 등에다 지고
파도 세고 무서운 저 바다를 건너서
조선각처 대마도로 돈벌이 간다

배움없는 우리 해녀 가는 곳마다
저놈들은 착취기간 설치해 놓고
우리들의 피와 땀을 착취해 간다
가이없는 우리 해녀 어데로 갈까

 

 

◆日本内地の済州海女出稼ぎ地(1938年)

対馬、高知、鹿児島、東京、長崎、静岡、千葉、愛媛、神奈川、青島、三重

東京の出稼ぎ地は、三宅島、八丈島テングサ漁。

1932年、三宅島には240名の済州海女。

その他、下北半島、熊本・天草、五島列島佐渡唐津、新潟・佐渡島、大阪築港も。

 

◆海女だけではなく、直行航路のあった済州島から大阪への移動経験者は島民の5名に1人にもなったことを忘れぬこと。(杉原達 1998)

 

◆海女たちが日本に渡ってすることは、海女だけではないということ。

 紡績工場。縫製の家内工業