이어도사나  済州海女の歌 メモ

◆海女たちは沖合の漁場をめざして舟を漕ぐ

이어도사나
이 노를 저어서 어디를 가리

진도바다 큰 물로 가세
한 쪽 손에 테왁을 들고
한 쪽 손엔 갈고리 들어
한 길 두 길 들어가보니
저승이 따로 없네

 

 

◆済州海女にも、帆を立てて出稼ぎの地へと航海する舟旅の航路を歌う道行きの海女歌がある。

 

城山浦日出峰をあとにして 安島に行くのだな

莞島地方を越えれば 薪智島過ぎて 

金塘島を越えれば あの大海もみな過ぎて

チヌリデ島を越えれば 羅老島を過ぎて

おもりの海を眺めゆく

突山島を越えれば オコゼの海を過ぎてゆく 

オコゼの海を過ぎゆけば 南海島だ 露梁海峡だ

蛇梁島の海を越えてゆく 青い海も越えてゆけば

巨済島知世浦長承浦を越えてゆく 

加徳島を過ぎゆけば、(意味不明)を越えてゆく

多大浦を過ぎゆけば 釜山影島にたどりつく

 

 

◆どんなときも生き抜くために海女は歌う。

 1932年済州海女抗争のテーマソングはこれ。

「海女抗日歌」   (詞:康寛順  曲:東京行進曲 1932)

 

1.

われらは済州島の哀れな海女よ

悲惨な暮らし 世の人の知る

寒い日 暑い日 雨降る日にも

あの海の波に揉まれるこの身よ

 

2.

朝は早くに家を出て 日暮れとともに帰ってくる

幼な子に乳やりながら飯を炊く

一日海に潜って 稼ぎは呆れるばかり

生きる不安に眠られぬ夜

 

3.

春の初め 故郷の親兄弟のもとを離れ

家族みんなの命の綱を背に負って

波高く激しいうねりの海を越え

蔚山 対馬に出稼ぎにゆく

 

4.

学のないわれら海女 行く先々に

やつらは搾取機関を設置して

われらの血と汗を搾り取る

哀れなわれら海女 どこにゆく

 

 

もともと牛島に伝わる「海女歌」とは別に、1932年の海女闘争時に作られ、歌われた。

三番までは他の海女歌にも歌われている内容。

四番こそが当時のメッセージであったが、それゆえ自由に歌うことは難しく、三番までのみが年老いた海女たちの間で歌われる。

 

 

◆パンソリのソリクン 安聖民に教えてもらったイオドサナ

 

어이어사나 아아아-이어도사나 으샤으샤

イオドサナ イオドサナ ウシャ ウシャ

물로야 뱅뱅 돌아진 섬에 먹으나 굶으나 아아아 물질을하여 으샤으샤

 ぐるりと水が囲む島で 食っても飢えても海に潜るよ ウシャウシャ

 우리 어멈 날 날적에 어느 바당에 아아아 미역국 먹어 으샤으샤

 おかあさんが私を産んだときには 海辺でわかめ汁を食べたよ ウシャウシャ

성님 성님 사촌성님 시집살이가 아아아 어떻습니까 으샤으샤

 ねえさん、ねえさん、嫁入り先の暮らしはいかがですか? ウシャウシャ

한푼 두푼 모은 돈은 서방님 용돈에 아아아 모자라간다 으샤으샤

 一銭二銭と集めた金は亭主の小遣い銭にもなりゃしない  ウシャウシャ

우리배는 소낙배요 남의배는 아아아 쑥대낙배요 으샤으샤

 われらの舟は松の木の舟、他の船は蓬の舟  ウシャウシャ

이어도물은 저승물이요 이어도문은 아아아 저승문이라 으샤으샤

 イオドの水はあの世の水よ イオドの門はあの世の門よ ウシャウシャ

 

◆済州海女の朝鮮内の出稼ぎ先は慶尚南道蔚山・機張あたりがもっとも多い。

そこはテングサとわかめの産地だったから。テングサは日本向け。

1926年 慶尚南道テングサ生産量は全生産量の70%を占めた。

 

◆出稼海女、旅する海女が激しく増えたのは、植民地支配の賜物

 しかも、戦争末期の徴用海女の仕事は、火薬の原料になる「かじめ」だけを採ること。それ以外の海藻類や貝類を採ることは許されなかった。