重要なのは両者(寓話・象徴)ともに世界の多様性が安易に一義化されてはいないということです。


●これ(↑↑)はアフリカのセヌフォ族のフィールドワークに入った中島智の言葉。
この言葉は、さらにこう続く。

「そういうわけでセヌフォの人びとも文字を学んだ者に対しては基本的に秘儀を伝授しません。これは意味の一義化、固定化の指向を招くものだからです。そこでは自然と対峙したり精神階梯の高い人びとと対話を交わす中で働く官能的な直感力が鈍くなってしまうのです」


●セヌフォ族の酋長の意味深い言葉。
「そこにいないものの名を呼ぶと、見えない世界の中に重大な運動を生じさせ、その事情、その存在が喚起され、呼び出されることになる。気をつけなさい。」


安易な呼びかけは危険なのである。
意識によっては交感不能な位相の世界に対して音楽の形式や象徴の形式、あるいは肉体(語りやダンス等)を通してその呼びかけを実践していく者たちにとって、呼びかけは存在レベルの交感であり、実際にそれは何らかの喚起をもたらす。それゆえに呼びかけは危険なのである。


●「セヌフォの人びとにとっての美とは、共に生きながら意識レベルでは交感不可能な絶対的他者を、内なる他者の諸形式に仲介させる技術において立ち現れるものなのです。すなわちそれは一種の力であると同時に、存在そのものなのです」