「これは私の記憶なのか。それとも場所そのものの、島そのものの記憶なのか。場所の記憶が、島の記憶が私に喚びかけ、働きかけているのか」


明治以前、西の高野山とも呼ばれ、修験道の島であった「遅島」の記憶。
昭和の戦前の時代に、その記憶は既に遠いものとなっている。

というのも、明治初年に、修験と神仏習合の世界が明治政府の神仏分離令とそれによって引き起こされた苛烈な廃仏毀釈によって、その記憶は修験者たちと共に消され、捨てられ、封じ込まれたから。


人は忘れる、人は忘れる、すべてを忘れてゆく


そんな忘れられた修験の島になぜ主人公はやってくるのか、
もちろんいろいろ理由はある。論文を書くためだとか。

だが、実のところは、あまりに身近な死に取り囲まれたがゆえに、無意識のうちに再生を願って島にやってきたのではないか。
かつての修験者のように山を駆けることで、再生を果そうとしたのではないか。
生きたいという衝動を身のうちに抱えていたのではないか。
修験者のあとをたどって山をゆく主人公は、修験者が残した地名を辿ってゆく者でもある。
地名には主人公を導いてゆくひそかなかすかな記憶が宿っている。


島には、他の部落とは暮らしぶりの異なる波音(はと)という部落がある。平家の落人部落という伝説があるが、よくある伝説でもある。
主人公の山駆けの案内をしてくれるのは、その部落の若者だ。


主人公が島で見るもの、聴くこと、体験することは、すべてが生と死のあわいの出来事のようでもある。幻のようでもある。
海うそ(=蜃気楼)のように。


色即是空。現実は幻だ。


あわいの世界をくぐりぬけて、生の世界へと還っていった主人公が、再び島を訪れるのは50年後のことだ。運命の呼び声に引き寄せられるようにして。


50年後、島は無惨に様変わりしている。
当時の人びとはもういない。波音のあの若者はもうずいぶん前に戦争で死んでいる。
その波音(はと)が、吾都(あと)の転じたものであること、それは本当に平家の落人部落だったことに主人公は気づく。50年後に。


土地の記憶、土地の教え。


島は様変わりしているが、その変容のうちに、変わらぬものがあることに気づく。

「これは私の記憶なのか。それとも場所そのものの、島そのものの記憶なのか。場所の記憶が、島の記憶が私に喚びかけ、働きかけているのか」


色即是空、空即是色、色即是空、空即是色……。


「風が走り紫外線が乱反射して、海も山もきらめいている。照葉樹林樹冠の波の、この眩しさ。けれどもこれもまた、幻。だが幻は、森羅万象に宿り、森羅万象は幻に支えられてきらめくのだった。世界を見つめる初歩の初歩のようなこの認識は、また奥の奥のような常新しいきらめきを放ち、山根氏が私に問うた「色即是空の続き」は、経のなかでは空即是色だったということを、今更ながら私に気づかせた。「続き」は、空即是色だった。修験者たちが、修行のなかで、この島のあらゆる場所で、洞窟で、断崖で、滝で、何万回も呟いたであろう。色即是空、空即是色。子も島に満ち満ちているはずのその文言。なぜこんな当たり前のことがわからなかったのか。
 いや私はわかっていた。ずっと、わかっていた。それがまた色即是空へと一瞬にして転ずる、そのことも含めて。繰り返し繰り返し、島で過ごす朝な夕な、新しく更新される世界を目の前にして、私はそのことを、そのたびごとに新鮮な驚きとともに、わかっていたのだ。五十年前のあの旅で、私は自分の論文の内的な問題意識が到達すべき場所に、ことばによらず、すでに到達していたのだ。」


海うそ。この言葉/現象を、色即是空、空即是色の別名として、作家は記している。唯一変わらぬものとして。