奈良県大宇陀の山中の日張山青蓮寺は、中将姫ゆかりの尼寺です。
津村順天堂の「中将湯」の、あの中将姫です。
中将姫と言えば、当麻寺の当麻曼荼羅で有名な、あの中将姫です。
(しつこいな……)
今日はまだ正月2日なので、すーだらしていたいので、かなりの手抜きで、中将姫のプロフィールをwikiから引用します。
藤原鎌足の曾孫、右大臣藤原豊成とその妻の紫の前(品沢親王の娘、又は、藤原百能)の間には長い間子どもが出来ず、桜井の長谷寺の観音に祈願し、中将姫を授かる。しかし、母親は、その娘が5歳の時に世を去り、6歳の時に豊成は、照夜の前(藤原百能、又は、橘諸房の娘)を後妻とする。
中将姫は、美貌と才能に恵まれ、9歳の時には孝謙天皇に召し出され、百官の前で琴を演奏し、賞賛を受ける。しかし、継母である照夜の前に憎まれるようになり、盗みの疑いをかけられての折檻などの虐待を受けるようになる。
13歳の時に、三位中将の位を持つ内侍となる。
14歳の時、豊成が諸国巡視の旅に出かけると、照夜の前は、今度は家臣に中将姫の殺害を命じる。しかし、命乞いをせず、亡き実母への供養を怠らない、極楽浄土へ召されることをのみ祈り読経を続ける中将姫を家臣は殺める事が出来ず、雲雀山の青蓮寺へと隠す。翌年、豊成が見つけて連れ戻す。中将姫は『称讃浄土佛摂受経』1000巻の写経を成す。
天平宝字7年(763年)、16歳の時、淳仁天皇より、後宮へ入るように望まれるが、これを辞す。その後、二上山の山麓にある当麻寺へ入り尼となり、法如という戒名を授かる。
仏行に励んで、徳によって仏の助力を得て、一夜で蓮糸で『当麻曼荼羅』(『観無量寿経』の曼荼羅)を織ったとされている。
宝亀6年(775年)春、29歳で入滅。阿弥陀如来を始めとする二十五菩薩が来迎され、生きたまま西方極楽浄土へ向かったとされる。
しかし、これは何をもとにしてwiki筆者は書いたのかな。まるで実在のお姫様のようだけど、話としては大筋、こんな感じです。
そして、青蓮寺では、こんな風に言い伝えられています。
つまり、
中将姫は、継母の讒言で14歳でひばり山に配流の身となり、命を狙われるも、家臣の松井嘉藤太に助けられ、この地に草庵を結んだ。そして2年6か月の間、念仏三昧で過ごしたのちに屋敷にようやく戻るを得たものの、やがて当麻寺に入り出家。当麻曼荼羅を感得した後に19歳で再びこの地を訪れて一堂宇を建立。これが青蓮寺なのである!
ということであります。
で、その青蓮寺で、元旦の午後2時過ぎ、私と連れの祭文語り八太夫に「これは中将姫のお導きでしょう」、といかにも宗教者らしい言葉を、女性らしい柔らかで朗々とした声で語るご住職、堀切康洋師は、とうとう笑いをこらえきれずに、その語尾はそのまま、「でしょおおおおお、ほほほほ」となったのでした。
一体どういうわけで、そういうことになったのか。
話は二日前のさかのぼります。
12月30日、私は奈良・大宇陀の山中にある日張山青蓮寺に、修正会に一般参加もできますかと、わざわざ電話をかけて確認したんです。
青蓮寺には、これまで2回、中将姫のお参りに訪ねたことがあります。2回目のときに、2,019年の年間行事カレンダーをいただいている。そこには、「元旦 1時 修正会」とあるのだけど、2020年も変わらず昼過ぎ1時に修正会はあるのか、ということの確認です。奈良市内から宇陀は遠いので、行ってがっかりしないよう、念のためということもあるし、修正会がいかなるものか、それは元旦に行われる法会だろう、くらいの認識しかなかったので、それだけに一度体験したみたく、体験するなら、ここ数年興味を持ってそれとなく追っている中将姫ゆかりの寺がいい、ということでのわざわざの電話でもありました。
すると、電話に出た康洋師は、
「修正会? 一般参加、大歓迎ですよ、でしたら修正会だけでなく、除夜の鐘も突きませんか?」
私は、康洋師の親切なお誘いに、困ったなぁと思いつつ返答します。
「奈良市内から行くので、宇多はちょっと遠いから、除夜の鐘と修正会の二つは厳しいと思います」
「除夜の鐘は12時過ぎまで打つから、その頃に来れば大丈夫ですよ」と、康洋師。
うーーーん、夜中に奈良市内から大宇陀まで行き、鐘を突いて、また奈良市内に戻り、元旦の昼過ぎにまた大宇陀か、それはつらいな、ちっとも大丈夫じゃないな、困ったなとますます思いつつ、
「修正会は1時くらいからですか?」と、とにかく今まで参加したことのない未知の法会の修正会のことをひたすら聴きます。
「はい、そうねぇ、遅くとも1時半までには来てくださいね」と康洋師。
さらに、
「雪が降るかもしれません。それで来れなくなったら、そのときはわざわざ電話するのは及びません」とも。
おお、山間の地、宇陀は雪が降るのか!と驚きつつも、その言葉に甘えました。
大みそか、元旦と、奈良市内⇔大宇陀二往復はどう考えてもつらいから、除夜の鐘は連絡なしでパス、元旦の昼過ぎの修正会だけ参加させていただくことにして、元旦の午前11時に奈良市内を出て、青蓮寺に向かったのでした。
午後1時前に着きました。ところが、山の麓の青蓮寺駐車場には車が一台もない。狭い山道を車で登っていって、境内手前の駐車場に着く。ここにも車は一台しかありません。この一台はご住職の車に相違ない。
まさか、修正会って、参加者がわれわれしかいないの? まさかね……。
境内へと入っていきます。すると、作務衣姿の(これから法会というのに、法衣じゃない、作務衣だよ!)康洋師がポツンとひとり、寺の窓際のところに座って、どうやら本を読んでいる。(これから法会でしょう? なぜに読書!!!)
足音を立てて境内に入ってゆくわれらの姿を認めた康洋師が顔をあげて、大きな声で呼びかけてきました。
「お電話してきた方ですかー?」
「はーい、そうです。修正会に来ましたーーー」
「あーーー、そうですかーーー、修正会はもうとっくに終わりましたよー、午前1時に始まって、夜中にもう終わったんですーーー。でも、もしや来るんじゃないかと思って、寝ずに待ってましたよ――――」
「はーーーーーーーーーー!?」
なるほどねぇ、無知というのは恐ろしいものです、思い込みというのは頑ななものです。修正会は除夜の鐘にひきつづいて年明けとともに仏さまにご挨拶申し上げるその年の最初の法会、だからだいたい深夜1時くらいのスタートなんだそうです。
「午後1時ならば、案内には13時と書きますよ」と康洋師は言い、手渡してくれた2020年度の月ごとの法会の案内の葉書を見れば、確かに他の昼の法会は13時と書いてある。
深夜一時スタートならば、除夜の鐘を叩いて、そのまま流れで修正会に、というお誘いはもっとも至極。ああああ、やっちまいました。
それから康洋師は法衣に着替え、中将姫の像が祀られているお堂にわれらを招きいれ、たった二人のための12時間遅れの二度目の修正会をやってくださったのでした。
青蓮寺は浄土宗です。南無阿弥陀仏(なむあみだぶ)と唱えつつ、法然の言葉を唱えつつ、焼香をしつつ、たぶん「称讃浄土仏摂受経」(阿弥陀経)の一部を唱えつつ、修正会初体験。
それからいろいろと話を伺いました。
檀家のいないこのお寺がどのような方々に支えられているのかということ、
その方々が除夜の鐘を突き、修正会に集まり、ともに経を読み、飲んだり食べたりもしてわいわいと一年のはじまりを祝ってすごすのだということ、
いきなりそこに飛び込んだら、今日みたいにはじっくり話すことはできなかっただろうから、かえってよかったということ、
毎月5の付く日は勉強会もしているということ、
青蓮寺所蔵の重要な古文書である中将姫縁起をいま専門家に読んでもらっているということ、
4月12日は中将姫会式(今年で1246回忌)なのだということ等々。
私たちもまた自身のことを少しばかり話しました。
われらは説経祭文をはじめとする「語りの徒」だということ、
ここ数年、中将姫の物語もいずれ語ってみようと思って、中将姫ゆかりの地を折に触れ巡っていたこと、
それで初詣をかねて、修正会は青蓮寺にと思い立ったこと等々。
すると、「ああ、今度の中将姫会式で、まずはなにか語ってみませんか」と、話はそこまでとんとんとんと進んだのでした。
そういうわけで、「これは中将姫のお導きでしょう」と相成ったわけであります。
こういう言葉はよくある言い回しではありますが、康洋師にとっては、モノの弾みで出た言葉ではありません。
康洋師曰く、
檀家のないこの寺に入って8年、なにかあれば誰かが現われて、寺を支えてくれる、さまざまに縁が結ばれ、広がっていく、その縁は、どう考えても中将姫が結んでいるように思えてならない、それはリアルな実感なのだと。
その話を聞く私は、ああ結ばれてしまったんだな、一生忘れがたい勘違いをもって、固く固く結ばれてしまったんだな、と思ったのでした。
今年2020年は中将姫の呼び声のままに動いていくことでしょう。なむあみだぶ、なむあみだー。
おみやげに、津村順天堂のハーブの入浴剤とお米と干しシイタケとカレンダーまでいただきました。
縁に感謝。