山本ひろ子『異神』 メモ

牛頭天王の項

 

大神楽・花祭の伝承地、奥三河における牛頭天王信仰を、

牛頭天王島渡り祭文」(原本は、修験道の大先達で花祭中興の祖と仰がれる万蔵院が、奥三河の旧田鹿の守屋家に伝授したものと言われる。守屋氏もまた修験の先達)と、

牛頭天王講式」(東の牛頭天王社の総元締め・津島社のこの「牛頭天王講式(漢文)」が、津島御師によって奥三河に持ち込まれて、書き下しの「牛頭天王五段式」となったと考えられている)で、読み解いてゆく。

 

なぜ山本ひろ子は、花祭のいまは忘れられた真のヒーローとして、牛頭天王を論じるのか。

 

花祭が孕む深遠な時空間には、そのほかに物言わぬ異貌の神々がひしめいているのだ。五帝龍王、土公神、天白神、荒神などの恐るべき尊格である。大神楽の廃絶、神仏分離という歴史上の受難によって、また近代的思惟様式によって、これらの神々の生態は忘却せられ、“隠れたる神”として、神名や御幣にかろうじて痕跡を残すだけである。けれども彼らこそ大神楽・花祭の真の主人公であるのを知ったならば、花祭はまったく別の貌を私たちに見せることになろう。(中略)

 牛頭天王とそのグループも、右のような隠された神々の系列に属している。

 

※ 牛頭天王と言えば、まずは京都祇園社で、「祇園牛頭天王縁起」を読んでおくのは基本。

  そのうえで、奥三河牛頭天王の祭文を読む。

 

牛頭天王は強力な行疫神。その子がいわゆる八王子。そして8万4千の眷属神を従える。

 

「島渡り祭文」では、牛頭天王とその眷属は「渡りの神」と呼ばれる。「悪風」に乗って次々と各地を渡り歩く。

 

津島社の御葦送りの秘儀をめぐっては、葦の葉が象徴するものとしての、眷属神が語られる。

 

<毛穴に宿る神>のくだりは背筋が寒くなる。

属神(牛頭天王の8万4千の属神)は360日一時一刻の主神、人身にも亦毛穴の主神なり。半ば放たれて、半ば留まるは、たとえば秋冬既に往くといえども、春夏の気、此れに留まれり。

 

人間には8万4千の毛穴があり、そのひとつひとつに 行疫神である牛頭天王の眷属神が宿っているという恐ろしさ。

 

それを山本ひろ子はこう言う。

人間の毛穴の数と眷属の数が同致されるとき、「八万四千……」という数は、視えない行疫神の生命力・増殖力そのものとなる。 

 

これは怖い、想像するほどに背筋がぞくぞくする。

 

かつては猛威を奮った疫病の流行に対し、人民はもちろん、為政者とてほとんどなすすべはなかった。疫神の送却、ひるがえって同じ強度で薬師仏の加護を願う人々の祈りこそが、牛頭天王の内実であった。生命にかかわる切実さ、おそろしさゆえに、疫神祭祀は秘儀性によっておのれを律せざるをえなかったのである。 

 

 

※ 明治政府の神仏分離政策によって、異神・牛頭天王は神話の神スサノオにその身を明け渡すことになる。

 

以下の山本ひろ子の締めくくりの文章にはしびれる。

 

しかしいかなる忌避と禁遏に遭遇しようとも、この微細にして膨大な旅人の群れは、決して死に絶えることはない。新しい疫霊に変異して逆襲する時を窺い、一時沈黙しているだけだから。いかなる人間の抑止力・文明の対抗策も、彼らを根絶やしにすることはできないだろう。それは「行疫」という過激な手段をとった、視えない精霊たちの哄笑、この世の秩序への不断の戦いの姿にも思われる。

 

いきなり『異神』上下巻の、下巻最終章から読みはじめてしまったので、これから上巻へとゆく。

これはもっと早く読むべきだった。