石原吉郎  メモ  (抜き書き)

〈失語と沈黙の間〉


失語そのもののなかに、失語の体験がなく、ことばを回復して行く過程のなかに、はじめて失語の体験がある


失語のほんとうの苦痛は、ことばが新しくはじまるときに、はじまる

ことばをうしなう過程そのものが、人間にたいする関心をうしなって行く過程でもある


そのとき、ことばは単に自己確認の手段、自分自身への疑問符として存在する


失語 : ことばの主体がすでにむなしいから、ことばの方で耐えきれずに、主体である私たちを見はなすのです

見はなされる主体としての責任は、さいごまで私たちの側に残ります


ことばをうしなうことは、人間が集団から脱落すること

ことばはじつは、一人が一人に語りかけるもの

ことばがうしなわれるということはとりもなおさず、一人が一人へ呼びかける手段をうしなうこと



いまは、人間の声はどこへもとどかない時代です。自分の声はどこへもとどかないのに、ひとの声ばかりがきこえる時代です。日本が暗黒な時代にあってさえ、ひとすじの声は、厳として一人にとどいたと私は思っています。いまはどうか。
 

私がなぜ詩という表現形式をえらんだかというと、それは、詩には最小限しとすじの呼びかけがあるからてす。ひとすじの呼びかけに、自分自身のすべての望みを託せると思ったからです。



〈沈黙と失語〉


言葉が無力となるのは、主として収容所の現実にかんしてである。現実の生活において言葉が無力なのは、私たちが人間として完全に均らされていたからであり、反応も発想も、行動すらもほとんどおなじであったからである。


単なる数として存在していとから、とも言える。数にならないと生き抜けなかったからとも言える。



〈詩の定義〉

詩は、「書くまい」とする衝動なのだと。(中略) 詩における言葉はいわば
沈黙を語るためのことば、「沈黙するための」ことばであるといっていい。もっとも耐えがたいものを語ろうとする衝動が、このような不幸な機能を、ことばに課したと考えることができる。

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田村隆一詩集『言葉のない世界』

帰途




言葉なんかおぼえるんじゃなかった
言葉のない世界
意味が意味にならない世界に生きてたら
どんなによかったか

あなたが美しい言葉に復讐されても
そいつは ぼくとは無関係だ
きみが静かな意味に血を流したところで
そいつも無関係だ

あなたのやさしい眼のなかにある涙
きみの沈黙の舌からおちてくる痛苦
ぼくたちの世界にもし言葉がなかったら
ぼくはただそれを眺めて立ち去るだろう

あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか
きみの一滴の血に この世界の夕暮れの
ふるえるような夕焼けのひびきがあるか

言葉なんかおぼえるんじゃなかった
日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで
ぼくはあなたの涙のなかに立ちどまる
ぼくはきみの血のなかにたったひとりで掃ってくる