「ほう、夜、明けたなぁ」  小野和子『あいたくて ききたくて 旅にでる』メモ

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この本の魅力は、

昔話を語ってくれる人々を求めて都市(仙台)から近郊の未知の山村を尋ねまわって(これはほとんど憑りつかれたかのような尋常ではない行動である。著者は淡々と探訪の日々を描いているのであるが)

そうやって見つけ出した昔話の語り手(それはひとり家に残されて縁側に座っているおばあさんだったり、村共同体から浮き上がって生きてきた老人だったり、ときにはあまりの生の辛酸に石になったおばあさんの家に集まるおばあさんたちであったり)との出会いから、

語られた物語に潜む語り手の人生の記憶、そもそも物語を語りつぐということが語り手・聴き手にとってどのような意味を持つのかについて、ひいては、物語るということと人間が生きていくということの深遠なる関わりを、ひとつひとつの出会いを通して、扉を開くように、目が開かれていくということ。

 

個々の語り手と切り離しては、語られた物語は魂を持たないのだということ。

 

きれいに起承転結をつけて文字化された物語から切り落とされたものを見過ごしてはならないということ。

 

聞き取った物語を、聞き手が整理して文字テクストにしていくとき、そこには聞き手の人生までもが入り込んでしまうということ。

(たとえば、松谷みよこ子が物語を再話していくとき、そこに松谷みよ子が加える解釈もまた、松谷みよ子の人生からこぼれでた声なのである)

 

人生を映し出す昔話は、それぞれの人生が起承転結に枠どられたものではありえないように、けっして起承転結の枠にははまらないということ。

 

瞽女や説経語りや祭文語りの物語を聞く人びとがそうであるように、昔話を語る人たちは、かつて聞いた昔話をおのずと自分の人生の記憶の器として語り継ぐ。それはおのずと聞いたままの物語ではなく、その人でしか語りえない物語となる。

(もちろん、瞽女や説経語りや祭文語りもまた、それぞれの旅の人生のなかで、物語るをそれぞれに読み換えて語っているのである)。

 

そんなことをつくづくと考えさせられる本。

 

第十話「捨てる」ということ

 

昔話<むがすむがす>を語ってくれたうちのひとり、民話を求める旅を続ける大きな力をくれた今は亡きヤチヨさんとの出会いと別れの記憶を語りつつ、記された言葉。

 民話を語る人は、必ずそれを語ってくれた人「死者」を語る。死者への思いがあるから、「言葉」は命を持ち、「むかし」と「いま」をつないで無限の未来を生きるのではないだろうか。

 

小野和子さんとヤチヨさんとのやりとりのなかでも、忘れがたい一節

「<むがすむがす>は誰に聞いたのですか」

と問うと、朝、赤ん坊を背中にくくりつけられると 、すぐに村はずれの「おばあ」の家に走って、そこで聞いたという。

(中略)

「なにか事情があって一人暮らしする人は、いつも村にいた。男だったり、女だったりしたが、橋の袂とか村はずれの山際とか、そういうところにひっそり暮らしていた。そこへおれのような子どもがよく行ったのよ。息を抜くためだよ。

(中略)

 家の内で祖父母や両親たちから語りを聞けない子どものために、まるで神が用意されたかのような、もうひとつの家の外の「語りの場」があったことを知って、わたしは深く頭を垂れた。

 文字も筆も紙もいらない。口と耳だけを使って、集落の片隅でひっそりと営まれた物語の世界が、そこにあったのである。生きるために「息を抜く」ことが許される場が、そこにあったのである。

 

物語はどこで、誰によって、語られ、聞かれるのか。そのことを深く考えさせる逸話。

 


第十一話「母なるもの、子なるもの」

これも実に印象深い話。

松谷みよ子の「山なし取り」「なら梨とり」の話と同じ類型の物語である、ミドリさんの「さんかのみや梨」

 

ミドリさんの語るこの<むがすむがす>は、小野和子さんの言うところでは、「枝葉を切って芯だけ残っているような一話」

登場人物はお父さん、病気のお母さん、

そして、病気のお母さんに「さんかのみや梨」を食べさせようと山に入っていって、滝が「行ぐな たんたん」というのも構わずに梨の木のある沼まで行って、沼の大蛇に食べられてします太郎、次郎、五郎。

 

物語は、梨を食べたいというお母さんの願いからはじまるのに、蛇に飲まれた子どもらのうち、五郎が持っていた山刀で蛇の腹を裂いて、三人とも無事に蛇の腹から出てきて、こう言うところで話が終わる。

「ほう、夜、明けたなぁ」

梨が食べたいというお母さんの願いはいつしかどこかに置き忘れられていて、

子どもらが蛇の腹から外に出たときに思わずこぼれ出た言葉、その言葉に込められている想いの深さが、ほううううと身にしみいるような、あるいは、いきなりストンと空虚に落ちてゆくような、そんな終わり方。

 

起承転結という枠などないし、太郎、次郎の次は五郎だし……。

 

ああ、でも、人がなにかをふっと語りだすとき、語られる物語というのは、こういうことだよな、と思う。

文字のテキストで読むような周到な構成、物語のなかの人間関係、事件を結末できちんと回収していくようなことは、声で語られて、その場で消えてゆく「語り」の世界ではむしろ珍しいことなのではないか、

文字に慣れ過ぎた私たちは、それを見事に忘れているのではないか、

どんなに矛盾した話でも、どんなに妙な展開でも、実はその矛盾に、その「妙な」ところにこそ、その話の語り手の人生なり、思いなりが深くやどっているのではないか、

 

正しさとか、論理的整合性とか、そういうものとは異なる次元で、物語は、誰かの声で語られて、誰かの耳で聞きとられて、さらにまた別の誰かの声で語り継がれていくのだということ。

 

これはとても大事なことなのだと、深く深く感じ入った。

 

「ほう、夜、明けたなぁ」 

 

この声がちょっと忘れがたい。