『列島祝祭論』やっと読了。」

安藤礼二『列島祝祭論』読了。

 

実に面白かった。

著者あとがきから。

 

いびつな近代を真に乗り越えていくためには一体何をなせば良いのか。

(中略)

 

現在を知り、現在を根本から変革していくためには政治の革命、現実の革命のみならず、宗教の革命、解釈の革命こそが必要なのである。その系譜を知り、理論におおいても実践においても、引き継ぐことが必要なのである。そのために列島の祝祭の起源、その原型にさかのぼる必要がある。

 

本の帯にも「日本的霊性の原型を根源的に探究」とあるが、「起源」や「原型」や「根源」のような、はじまりの一点に向かってぎりぎりと物事の動きを縛る近代用語では語りえないものを思考しているのが『列島祝祭論』なのだと思った。

キイワードは、吉野、修験、夢幻能、習合、本覚、密教、異類異形、野生、反復、擬き等々。

そこには、脈々と「草木国土悉皆成仏」の思考。

 

思うに、いま、芸能を語り、芸能の場を開いていくということは、呪縛する言葉、分別して囲い込んで固定する論理からの解放を目論むことなのである。動きを、逸脱を、よみがえりの力を取り戻すことなのである。そうであってこその芸能であって、そうでなければ、それはいわゆる「パンとサーカス」のサーカスになり果てるのみ。

  

谷崎の『吉野葛』、再読しなくては。

日本霊異記』も、もう一度眺めてみよう。