そもそもは安藤礼二の『列島祝祭論』に、伊勢ー室生ー初瀬ー三輪ー大和―若狭を結ぶ水の道があること、それは水の女神 「十一面観音」の道でもあるのだと教えられたことが事の発端。
(ちなみに、東大寺の火と水の祭典 お水取が、若狭と伊勢の結び目になっている。その結び目には修験の思考が見え隠れする。安藤礼二はこう言う「「水取り」は、仏と神との約束、つまりは最初期の神仏習合――しかし、そうした融合状態が、この列島に定着した最初期の仏教の真実であったのかもしれない――儀礼に、その起源を持っている。「水取り」がはじまった段階で、この列島においては、すでに、仏教と神道の相互浸透がはじまっていたのだ(中略)修験がはじまるのも、そうした地点、「古密教」(雑密)による神仏習合から、であろう」。しかし、こういうもろもろは、ほんのきっかけに過ぎない)。
水。と聞くだけで心が震えるのだ。
山。と聞くだけで、沢を流れる水音、滝を流れ落ちる水しぶきを想うのだ。
私にとって、水とは、いつの頃からか、山から湧きいずる水、山を流れ落ちてくる水であって、それはまた「いのち」の別名でもある。
若狭から大和へと水を送る鵜の瀬を訪ねたことがある。
初瀬川の流れるところ、長谷寺を訪ねたことがある。
初瀬川のさらに上流、室生寺を訪ねたことがある。
山の中だ。生まれたばかりの川が流れているところだ。
とはいえ、そのときは、それぞれに別の目的で「水」を訪ねていたのであって、それが一つの水脈を形作っているとは思っていない。
私にとって、命の別名である「水」。
安藤礼二が指し示した水の道では、「十一面観音」が「水」の別名となる。
ああ、そうか、水の道、命の道の道しるべなのだな、観音様は。と私は勝手に納得する。
ならば、あらためて、十一面観音を訪ねる旅に出るぞ、
と、すぐにこらえ性もなく何かを思い立つ癖のある私は、あっという間に旅の構え。
これは修験の思考が脈々と流れる水脈、水の道であもあるゆえ、わが家に棲息するいかがわしい山伏を旅の先達とすることにする。
というわけで、まずは、まだ一度も行ったことのない、奈良は桜井市の聖林寺にあのフェノロサも激賞したという十一面観音に会いに行こうと思ったのである。
聖林寺の十一面観音は、もともとは大神神社の神宮寺である大御輪寺の御本尊だったものだ。明治の廃仏毀釈の折に聖林寺にかくまわれた。
(ちなみに大神神社の神宮寺は、大御輪寺、浄願寺、平等寺の3つ。)
そういうことならば、聖林寺を訪ねるのにあわせて、ついでに大神神社も行ってみようかと軽く考えた。それが先週4月1日のこと。
すると山伏がこう言うではないか。
あんなコケオドシの巨大鳥居を立てているところは気が進まないね。
(これが、山伏言うところのコケオドシ鳥居)
さらに山伏がこう言うではないか。
行くなら、三輪山の麓の鳥居やら社殿なんかじゃ意味がない。そこに神はいない。三輪山に登るんだ、山が御神体なんだ、そこにご登拝しないと意味がない!!
うーーーん、確かに言うとおり、しかし、今回は大神神社は私の中では聖林寺探訪のおまけのようなものでした……しかも、今は山に登る体力がない、(なにしろ往復3時間の登山行という)、と小声で言って、すっかり山伏のご機嫌を損ねた。(そういうことをいうヤツは、修験にとって山が何たるかを分かっていない、ということだ)。
一週間。反省して、登山に向けて英気を養い、その間に大神神社について、聖林寺のついでではなく、しっかり調べた。大神神社のHPなんぞは当てにならない。廃仏毀釈後の新しい伝統は、とりあえずは要らない。
そして、大神神社には、今だからこそ行かねばならぬ。いうことに気づいたのだった。
世はコロナ禍。
一方、大神神社の祭神の大物主とは、記紀において日本史上最初のパンデミックの原因となった「祟り神」であると同時に、祀られることによってパンデミックを抑えた「守護神」だったのだ。
論文「都市の大物主:崇神朝の祟り神伝承をめぐって」(坂本勝 法政大学国文学会 2011-03)の冒頭にこんなことが書かれている。
古事記、日本書紀によると、第十代崇神天皇の時代に天下が疫病が蔓延し、人民は絶滅の危機に瀕した。愁い嘆く天皇の夢に神の知らせがあり、原因は大物主の祟りであることがわかった。朝廷ではこの神の命じるままに手厚く神祭りを行ったところ、疫病は終息し、人民に繁栄がもたらされた。
(中略)
大物主とは何者なのか
(中略)
大物主とは、大いなる自然の内部に都市と国家を作りだしてしまった人々が、みずから生きたその歴史と現実にたいして抱いた畏れと不安、あるいは自然と社会を貫いて蠢く見えざる霊威の化身、ということになる。
さらにこんなことも。
風土記にしばしば語られる通行人を殺して往来を妨害する祟り神伝承も、この時代の祟りが異なる共同体が接する領域において頻繁に発生していたことを物語っている。
したがってその霊威は、本来固定した場所に存在するわけではない。それは目に見えずに、自然と人間の諸関係の間を浮遊している。大物主は海の彼方の見えざる異郷から来臨したという記紀神話の語り方もそのことを暗示している。
その浮遊するモノの霊威を鎮める<自然>の領域として、古くから御諸山(三輪山)は浄化と再生を担ったのである。
しかも、大物主、自然、それだけが「モノ」なのではなく、人間もまた「モノ」。
物の怪、精霊、目に見えない、つかみがたい、恐ろしい存在としての「モノ」。
そのモノ(人間)の内部に蠢く無気味な力を、それを包み込む大いなるモノ(自然)の力によって浄化再生するシステムを語るのが記紀や風土記の祟り神伝承であり、その神話的起源が崇神朝の大物主伝承なのである。
勢いがついてむやみに引用してしまった。
無策無能な現代日本の「大物主/コロナ」との対峙を思い、ここ日本で国家が成立し都市が生まれた、そのはじまりのときの大物主との対峙に思いを馳せる。
大いなるモノ、山、自然、祈り、命がけの必死の祈り、命を守るための祈り
(少なくとも、王として、権力者として、崇神は責任をまっとうしている。あくまで神話上の話ですが)
4月8日、いよいよ三輪山登拝。
〈巳の神杉。ここには白蛇が棲む。三輪明神は蛇に化身する。巳さんには卵を供える>
<狭井神社は水の神。狭井は、賽にも通じるのだろうか>
登山口の入口は狭井神社。神の水の社だ。
登山道の脇には水が流れる。
沢とは言い難い、小さな流れだ。
水音を聴きながら、登りはじめる。
ここは花崗岩の山だ。(と、山伏が言う)
流れる水には鉄も混じっているのだろう。水にさらされ、赤くなっている岩も目に付く。
風が吹いている。
山を覆う緑のどこからか、桜の花びらが舞い降りてくる。
山を登る。
モノについて、思いをめぐらしながら登ってゆく。
山道には、生い茂る木々の根が蛇のようにうねって這っている。
大物主は、蛇身となって妻問いした神でもある。
木は、大地と天をつなぐ水路のひとつなのだ、天に向かって吹きあがる「水」なのだ、つまり木は「龍」なのである、ということを教えてくれたのは、易を研究しているわが老師だった。
祟り神大物主の「物」とは、「老子の「物」の概念によっている」と言うのは、保立道久氏だ。
『老子』の「物」という観念は神話に由来する言葉である。中国神話の実像は(中略)現在では、その原点が殷の時代にあったことが、甲骨文・金文や鼎などに鋳込まれた怪異な動物の象形の分析から明らかになっている。注目すべきは、それらの動物の象形は「物」といわれて、各都市国家の氏族のもつ氏族標識(トーテム)であったことである。それらは牛や鳥や龍などの姿をもっていたが、「物」は「牛」偏で、本来は特別な「牛」を意味したからトーテムのもっとも普遍的な形は牛だったらしい。
で、大事なのは、ここ。
この「物」という言葉が日本の神話や文化のなかに、ほとんどそのまま入り込んでいることである。たとえば、奈良三輪山にこもる「大物主」という神の「物」が同じ意味の「物」であって、この「神の気」は疫病をはやらすと同時に大地の豊穣をもたらすものでもあった。
さらに面白いこんな記述。
日本史で重要なのは、地域の神々が災害を起こす「祟り神」と指弾されて仏教に帰依した例が多いことである。たとえば若狭国の若狭比古神社の祭神は「疫癘しばしば発し、病死のもの衆し。水旱は時を失い、年穀は登(みの)らず」という疫病と旱魃が重なるという大災害に直面し、その責任を感じる中で、「我、神の身を稟け、その苦悩はなはだ深し」と告白した。そしてその神自身が「仏法に帰依して、もって神道を免れんと思う。この願い果すことなくんば災害を致さん」、つまり、より普遍的な宗教である仏教を帰依したい、そうでなければ自分自身がまた災害をもたらす結果になってしまうぞと人々に告げたというのである(『類聚国史』巻一八〇)
神々の「神身離脱」。この中で仏教化した神社、いわゆる神宮寺が形成されていったのだという。
これこそが、(中略)日本の神道と仏教が習合して、「本地垂迹」「和光同塵」という関係になっていく原点にあった。
これは、中国で老子が目指したことを日本では仏教がやったということである。これは自然なことで、(中略)
まず老子の思想は中国の神話的な神観念に強く影響して、その中から道教が生まれた。この道教は朝鮮を通じて日本の原始神話(そして後に神道となるもの)に強力な影響を及ぼした。問題は仏教であるが、実は、仏教も中国に伝来した始めには、老子の哲学と似たものと受けとめられて流布し、中国に根付いていった。(中略)実は釈迦は、この老子が天竺でとった姿なのであるという伝説さえつくりだされた。
この仏教が百済を通じて、六世紀頃に日本にやってくる。
この時代、日本ではちょうど神話時代の最末期であり、仏教は中国の道教の影響の中で形をとった日本の神話の神々に再び大きく影響し、その神話の神々と習合し、「神身離脱」させ、全国で神宮寺の建立を進めたのである。
この流れのなかに、大物主→三輪明神 神宮寺としての「御輪寺」 修験にとっての水の女神・ 十一面観音 があったということにもなるのだろう。
「牛」偏の「物/モノ」を思う時、やはり世に広く知られた疫神「牛頭天王」が思いだされる。
牛頭天王であり大物主であるモノどもが、この時代にはただ災厄として怖れられ、尊ぶことも、祈ることも、この一五〇年ほどの間に忘れ果ててしまったこともさっぱり思い出すこともないまま、モノをコロナと名づけて力ずくで封じ込めようと人間どもが慌てふためいて駆けずり回る、今のこの時代へと思いが及ぶ。
三輪山は山中の石を聖なるものとして祀り、(辺津磐座、中津磐座、奥津磐座)、それは巨石というより、小ぶりの群れなす岩としてある。無数のモノども宿した岩。
(山伏いわく、それらは無数の墓のようでもある。賽の河原のようでもある。無数の死者たちの気配に包まれてゆくようでもある。その気配は、山頂の高宮神社から奥津磐座への二〇メートルの小道のところで溢れだしてくるようでもある。私にはそれはよく分からない。山の中腹、不動明王が祀られた三光の滝から上は、水の流れは見えない、聞こえない、それが私には心許ないのである)
とはいえ、内に水をたたえてそびえたつ無数の木々の根は地の中、地の上をくねって、のたうつ蛇のようで、山頂に近いところに群生する全身いぼで覆われているがごとき「烏さんしょう」の木は、それ自体が疱瘡神のようにも見える。
三輪山は「大物主」の山、と言うとき、そこでは、なにかが匂いたつ。ムンとまとわりついてくるモノどものにおい、それに私はだんだんと包まれてゆく。
そして、においをかんじることはよきこと私は感じている。
モノたちの山。
モノは見えない、水の音、風の音にまぎれてモノは聴こえない、
でも、においはある。
モノを畏れよ。モノを尊べ。モノに祈れ。
そのにおいは、形のあるなしにかかわらず、そこにいのちがあることをほのかにささやきかけているようでもあるようなのだ。
人間もまたモノなのだということ、それもまたあらためてつくづくと思い起こす。
モノを畏れよ。モノを尊べ。モノに祈れ。モノとともにあれ。
二時間半。
ひどく疲れた。
ここで、大事なことを忘れずに書き留めておかねばならない。
いま、大神神社には、当然のことながら「十一面観音」はいない。
明治の神仏分離によって、神宮寺の廃絶とともに、追放されている。
つまり、大神神社は、十一面観音に象徴される「水脈」からは、みずから関係を断っている。
思うに、今の大神神社によって祀られる三輪山にあるのは、山を畏れ敬った太古よりの山岳信仰の、ほんの上澄みのようなものだ。伝統の衣をまとった、近代的山岳信仰とでも言おうか。
だから、わが先達の山伏は、大神神社の枠内の三輪山には、ほぼ興味を示さなかった。
いわば、そこは、空虚な山。
さあ、聖林寺に行こう。十一面観音が待っている。
お山を追われた平等寺にも行ってみよう。十一面観音が待っている。
旅は空虚をはじまりとする。
※山伏は、少し澄まして、FBにこんな記事をアップしていた。大人の対応。
三輪山に登拝。ここにはオオモノヌシが祀られている。これは疫病神。かつて都に疫病が蔓延し、人口が半減した時に、この神を祀ることで、疫病を収めたとか。悪をもって悪を制す。明日9日が大祭で、きっとコロナ退散を祈祷していただけるものと思うが、一日早く、自分で祈祷してきた。退散してほしいのはコロナだけではないので。アベノウイルスも一緒にご退散いただく。(残念ながら山内撮影禁止)