閑話休題  オリンピックがいやだ、と言って東京をあとにしたのは2019年7月。

奈良に住んでいる。土地勘も全くないまま、不動産屋にあちこち案内されたなかで、手持ちの貧しい予算の範囲でとこれならという家をようよう見つけて、富雄という土地に居を定めた。

 

奈良盆地の端っこ。目の前に生駒山が見える。矢田丘陵という丘陵地帯も見える。

六甲おろしは聞き知っていたが、生駒おろしもまた冬は寒くて、夏は蒸し暑いのだということを知った。

生駒を越えてくる雲は、生駒の標高分の高さにかかる雲で、だから富雄は空が低い、と住んでみて思った。空の高さ低さを感じたのは初めての経験だった。

向うの生駒とこちらの丘(登美が丘とかそういった名前の丘)と、その間の谷間を富雄川が流れる。

生駒が寺がやたらに多い民間信仰の山であることは知っていたが、

富雄川の川筋もやたらと寺や神社が多いことにすぐに気付いた。

そして、廃仏毀釈の歴史を、案内板を立て、寺や神社がしっかり伝えていることにも気づいた。

ご近所ですぐに足を運んだのは、真弓山長弓寺、海龍山王龍寺、杵築神社……

あちこちで不動明王を見つけた。役行者も見つけた。

さらに、富雄川にかかっている、いつも通る橋の名が「湯屋谷(ゆやんたん)橋」であることに気づいた時、ああ、ここは「熊野(ゆや)の谷」、修験の谷だったんだなぁと、ハッとしたのだった。

 

ここ数年、修験を大きな手掛かりの一つとして、芸能を考え、文学を考え、日本の根なしの近代を考え、近代を超えてつながっていく命を考え、野生の思考、水の思想とでも言うべきものを考えつづけていた。

 

それをさらに深く長く考えるには、まことにふさわしい土地に知らず知らず居を定めていた偶然を大事にしたいと思った。

 

目の前を流れる富雄川は、河内と大和の境の山である龍王山を源として流れ下り、明日香の法隆寺のほうへと脈々と流れゆく。

それもまた、十一面観音の水脈なのだと言うのは白洲正子『十一面観音巡礼』だ。

そのうち、きっと、富雄川を辿って十一面観音に会いにゆく旅に私も出る。

 

禍々しいオリンピックは、どうやら2021年7月に延期らしい。

無数の命を金づるにして、コロナ禍も追い風にして、オリンピックに群がるやつらがますますいやで、せめて命の水脈を取り戻す旅をするのだと、深く心に思う今宵。