2020年4月21日
富雄川沿いのわが家から、秋篠川のほうへと向けて、車を出す。
今日は秋篠寺だけ。
ここにも十一面観音がいたのだが、国立東京博物館に行ったきり帰ってこない。
この方です。厳しい顔をしていらっしゃる。かつての荒ぶる神の面影があるようでおある。
〈秋篠寺で買った写真集から〉
さて、秋篠寺の由緒を寺が発行している沿革略記から引き写すと――
奈良時代末期宝亀七年(七七六)、光仁天皇の勅願により地を平城宮太極殿西北の高台に占め、薬師如来を本尊と拝し僧正善珠大徳の開基になる当時造営は、次代桓武天皇の勅旨に引き継がれ平安遷都とほゞ時を同じくしてその完成を見、爾来、殊に承和初年常暁律師により大元帥御修法の伝来されて以降、大元帥(たいげん)明王顕現の霊地たる由緒を以って歴朝の尊願を重ね真言密教道場として隆盛を極めるも、
保延元年(一一三五)一山兵火に罹り僅かに講堂他数棟を残すのみにて金堂東西両塔等主要伽藍の大部分を焼失し、そのおもかげは現今もなお林中に点在する数多の礎石及び境内各処より出土する古瓦等に偲ぶ外なく、
更に鎌倉時代以降、現本堂の改修をはじめ諸尊像の修補、南大門の再興等室町桃山時代各時代に亘る復興造営の甲斐も空しく、明治初年廃仏毀釈の嵐は十指に余る諸院諸坊とともに寺域の大半を奪い……(後略)
時代とともに、災禍とともに、宗派も変転する。
当初は法相宗、次いで真言宗、そして明治初年に浄土宗、昭和24年以降は単立宗教法人。
というわけで訪ねた秋篠寺は、昔ながらの細い路地の先、水田や畑が点在する住宅街の中に建つ。
行けばわかる。確かにここは高台になっている。
山伏いわく、このあたりはちょうど斜面のはけで、水が湧くのだな。
秋篠寺の境内はみずみずしく苔むし、水が流れ、水が湧き、井戸がある。
ここは水の寺だ。
中には東門をくぐって入る。
入るとすぐ右手に地蔵、
左手にはこの寺のなによりの根拠である「聖なる水」、香水閣閼伽井がある。
「清浄香水」 「味如甘露」
この水を6月1日に汲んで、大元帥明王に供えるのだという。
大元帥明王はこの閼伽井の水底に、みずからの忿怒の形影を映じて、常暁律師にその示現を知らしめたのだという。
この大元帥明王は、謂れを読めば、なんとまあ神仏習合の集大成のような、最強のオールマイティ神だ。
この大元帥明王は、大廬舎那仏の化、釈迦と諸仏の変、如来の肝心衆生の父母、不動愛染等の諸々の威徳身、観音無尽意虚空蔵等の諸々の菩薩身、聖天十二天等諸々の功徳心等を一切を摂して衆徳荘厳せり。(中略)今願力の故に以って大元帥明王となし、諸尊の中、最尊最上第一の威徳身を顕現す。
大元帥明王はこんな方。燃え立つ髪の毛、忿怒の形相、腕6本!
秘仏なので、前記の通り、6月1日しか御開帳されない。
だが、今年はコロナのせいで御開帳できるかどうか……、とやはり受付の女性。
こんなときだからこそ、たとえ御開帳せずとも、必死の祈りをと思う。
私は仏教を信仰する者ではないが、風土の鳥獣虫魚草木石水に宿る神々の存在は信じる。というより、鳥獣虫魚…………すべての命、それ自体がカミなのだと思う。
すべての命を信じること、祈ること、
こうして形を取って現れ出るカミとは、人々の祈りが呼び出したものであり、時空を超えて祈りをつないでゆくためにここにある存在なのだとも思うのだ。
祈れ。
謙虚に祈れ。
そう、カミは、そして命は言っている。
さて、ともかくも寺の中へと入ってゆく、神仏だけでなく、なんでもある、これは砲弾を前に飾った忠魂碑、その傍らには、これは、地蔵か。
その先には、旧い祠が集められている。
疫病神牛頭天王、その子どもの八王子明神等々、いわゆる神仏習合の明王たちの祠がここに結集。
なぜここにこのように集められているのか、受付の女性に尋ねたが、はっきりしたことはわからない、そもそもこの寺の歴史も定かではない部分が多いのだという。
牛頭天王社がここにあることは大いに腑に落ちる。秋篠寺の御本尊は薬師如来。荒ぶる疫病神であり、祀ることで疫病からこの世を守る牛頭天王の本地仏だ。
このずらりと並ぶ古祠の前に立てば、神仏分離以前の人々の精神風景が見えるようでもある。
この標識を背に、本堂のほうへと向かう。
これが本堂。かつての講堂。
本来の本堂(金堂)は、もうずいぶん昔に焼けてない。跡地は豊かな緑に苔むしている。
本堂の中は撮影禁止。これも秋篠寺で購った写真集から。
真ん中にご本尊の薬師如来。このお方、すごく真っすぐな生一本の男らしいお顔をしている。
脇に日光・月光菩薩。さらに十二神将、不動明王ももちろんいる、そして向かって右端が左端に伎芸天。優美な腰のひねり。
愚直そうないいお顔。
あらゆる方位に立って世界を守る。
流れる水のような腰がポイント、伎芸天。
本堂を出て、大元帥堂へ。もちろん扉は閉じられている。
本当にこの寺にはなんでもある。大元帥明王堂のずっと右手、「欧州大乱 戦病難死 萬霊供養塔」。
萬霊供養塔の右手には、大峰山に三十三度お参りしたことを記念する石碑。
となると、役行者もいるわけで……
これは素朴な石の役行者さん。
そして、これは、かみなり石。
秋篠寺一帯は雷がよく落ちたのだという。
その騒がしい雷様のへそを常暁律師が取ってこの石の下に封じたのだという。
富雄の谷の辺りは、生駒おろしのせいで、風が吹いたり、雨が降ったり、くるくる天気が変わるが、平城京から見たら黄泉の国の押熊にも近い秋篠寺あたりもまた、風神雷神の棲み処だったのだろうか。
これは、今はなき東塔の礎石。なかなか立派な塔があったように見える。
南門から外に出る。すぐ目の前に八所御霊神社がある。
秋篠寺の鎮守神として創建されたという。
この日、氏子の方々だろうか、幾筋もの美しい水の流れのような美しい玉砂利の境内を丁寧に掃き清めている。
ここに祀られている八柱はいずれも非業の死を遂げた方たちばかり。
非業の死者を祀って神とする、
疫神を祀って神とする、
敗者を祀って神とする、
敗者の記憶、弱者の記憶、踏みにじられた者の記憶、
簡単になかったことにされてしまう者たちの命の記憶をとどめる装置としてのカミということも考える。
今日もコロナで町は閑散。
人影のまばらな町には、不信の風が吹き込んでいるようで、つながるべき命を探して歩いてゆく。
秋篠寺では伎芸天のお守りを買った。
芸能の奏でる音は、新しき世への道しるべ、と伎芸天は言っている、たぶんね。