「不知火曼荼羅」石牟礼道子 (砂田明『海よ母よ子どもらよ』より) 

明後日2020年5月9日  必要で、緊急な、大事なことのために、水俣を訪れる前に、乙女塚の塚守であった故・砂田明さんの本を読んでいる。

 

その本に寄せられている石牟礼道子さんの文章から。

 

--------------------------------------------------------------------------------

苦海浄土を書きながら、じつは自分で解説をも書いていた。文体論のようなものである。

(中略)

方言を例にとれば、これは民衆の思想が埋蔵されている遺跡なのである。ここにある曼荼羅をもっとも深い伝統の根と見るかどうか。形にして甦らせるには呪縛が必要で、情況論的にいえば戦術は、美学でなければならない。言語における富の発掘という意味あいも考えていた。

 そこには形に添うときの影や、根の思想が自己主張をせずに横たわり、より濃い影となるものや更に深い死へ向うものもいる。いずれ転生転死を夢みて豊饒かつ荘厳である。その者たちに宿りいくらか語った。言葉は退化してゆく時も言霊を伴う。生きようと死のうと働きかけるので恐しい。

 言葉だけでなくモノたちもここでは働きかけを持つ。砂田さんが全部引き連れてゆかれるようにと禱っていることである。

-----------------------------------------------------------------------------------

 

これもまた空恐ろしい言葉。

確信犯としての『苦海浄土』の文体。

文体の底に潜む言霊。

言葉にはたらきかけられ、モノにはたらきかけられ、

そうして、みずからもまたより濃い影となり、更に深い死に向かうものとなり、転生転死を夢みる言葉を語りだす、その覚悟の潔さ、恐ろしさ。

そうして紡ぎ出された言葉を、現代の勧進・旅芸人の砂田明に託して、全部引き連れてゆけと禱る。

その禱りもまた、恐ろしい。

禱るほうも、禱られるほうも、まことに空恐ろしいなにものかを確かに分かち合っているからだ。