『越境広場』第7号 金東炫「なぜ済州から沖縄を読み解くのか」  メモ

「済州から沖縄を読み解くことは「国家とは何か」を問うと同時に、「国家」を経由しない地域の思惟と連帯の可能性を打診することである」

 

[前提]

太平洋戦争末期、済州もまた、沖縄同様、本土決戦に備えての捨て石の島とすることを想定されていた。

 

日本の敗戦による解放後、済州はアメリカの傘の下、反共国家建国を企図する者たちによって「アカの島」として島民虐殺が繰り広げられた。

 

民主化を経て、済州4・3真相究明運動が法制化されたが、加害者であった「国家」が慰霊と追慕の対象を規定する主体になった。

 

[問い]

しかし、いったい「国家」とは、「制憲的権力」とは何なのか?

ベンヤミン曰く、「法はその起源から暴力に依存するしかなかった。」)

(主権の範囲を制定する瞬間、外部と内部は暴力的に断絶されていく)

 

「国家」という根本的暴力をしかと認識すること。

「国家」を覆う米国の傘、その下にある東アジアの構造的な矛盾を直視すること。

 

民主化された韓国においても、済州・江汀(かんじょん)に海軍基地建設が強行され、2018年文在寅大統領は江汀で行われた国際観艦式に参席している。

住民との対話の席が設けられたが、そこからは基地に反対する住民は排除されていた。

 

 

「一九六九年済州島で発行されたある雑誌には沖縄特集記事が載せられた。急な特集の背景には、当時沖縄から米軍が撤収される場合、済州島が新しい米軍基地の候補として取り上げられていたという事情が隠されている」

 

「よく日本本土の平和が沖縄の犠牲を前提に「想像」されたものだと言われる。韓国の平和も同様である。済州という犠牲のシステム、済州という内部植民地が大韓民国の今を作り出しているという自覚、国家内部の矛盾をより批判的に読み解くための試みは、沖縄というテキストを経由しない限り不可能だ」

 

「済州4・3文学と沖縄文学を一緒に読むことは共同体の分裂と非国民の記憶を共有することである」

 

 

アメリカ>日本>沖縄   アメリカ>韓国>済州 沖縄と済州。それぞれに二重の植民状況にあり、「国家」に閉じ込められたまま互いに互いを「想像」していては、済州は沖縄を、沖縄は済州を「発見」できない。 既に内面化されている植民主義を意識すること。 それを抉りだすこと。