石牟礼道子の夢の光景  『苦海浄土』第二部 第四章「花ぐるま」より

 

河出書房版『苦海浄土』P343下段~

 

 

思えば潮の満ち干きしている時間というものは、太古のままにかわらなくて、生命たちのゆり籠だった。それゆえ魚たちにしろ貝たちにしろ、棲みなれた海底にその躰をすり寄せてねむり、ここら一帯の岩礁や砂底から離れ去ろうとはしない。

 人家にほど近い磯に立って、渚の樹木の根元に今朝ほども捨てられたかとおもわれる、貝塚の山を眺めていると、漁夫たちの誰かれの顔が、縄文期の人びとのように見えてくる。ここはついさきごろまで、いや今ですら、労働と牧歌と祖型の神舞いのごときが、日常の中に混和して、山間の祠の間や洋上の舟の上で、わかちがたい世界をつくっている。水揚量の多寡も漁の種類もそういう世界のためにこそあれ、年寄りたちから赤子まで、そのような村落の欠くべからざる要員だった。

 

 

 

P344 上段~

「東京の坐りこみに、わたしがゆき来していた頃、死んだおそよ小母さんは言っていた。」という一文ではじまる、おそよ小母さんの語る道の祭の情景は、実のところ、石牟礼道子の夢の中の道の祭の情景なのではなかろうか。

 

道の神さんを先頭に、村の婆さん爺さんが着飾って、三味線弾いて、舞って、飛んで、腰の萎えた婆さんまでもが舞い踊る、そんな祭の情景。

 

山の中に道が拓けたのを祝って繰り広げられる、道の祭。夢の情景。

 

 

「東京は都じゃろなあ、わたしゃ、往たこた中ですが……。やっぱりここらへんの往還道から、続いとりますとでしょうもんねえ。祭より賑おうとるちゅう話ですが……。はあ、思い出すよ。

 うちげの村に、往還道が、はじめて通りました時にはですなあ、みんな喜んでもう、道祝いじゃちゅうて、みんなして、道の神さまに参りに行きましたですばい。一統連れで祭り着物着て。山ん峠に、薩摩の方と往還道のつながりましてなぁ。

 山ん向こうにまでですなあ、遠うさね、ひかひか道の出来とって。あの道は、どこまでばっかりゆくとじゃろうかち、考えればおとろしかごたるよち、婆さんたちの言いおられましたがなあ。わたしゃ五つばっかりで、子どもでしたばってん、おぼえとりますと。紐解き着物着せられてゆきましたけん、ばばさんに手えひかれて。

 道の神さまにお神酒あげて、お払いして、踊りば上げんばばらんちゅうて、迫々から、うっ立ち晴れしてなあ。みんな神さん参りの着物着て。婆さんたちばかりじゃなか、爺さんたちまで、紅白粉つけて、太鼓持って、菅笠かぶってですよ、花結びにしてなあ、顎の緒は。そして道行き三味線ば弾いてゆきますとですよ襷がけで。その襷の美しゅうございましたこつが、水色やら桃色で後結びにして。飛なはるもんで、ひらひらしますと。飛ぼうごたる道でしたもん。まっさらか道でしたけん。

 婆さんたちのまあ、目のさむるごたる赤か腰巻きして、高う飛んで、舞いなはりましたがなあ、いつもは、腰の萎えとらす人もですよ。草履にまで紅白布ば編み込んで、舞い草履にして。熊笹やすすき原の間ばなあ。山に出来た新しか道ですけん、道の神さんたちの、まっさき往きなはっとでしょうなあ、ああいう時は。芝居、映画でも、ああいう景色はみたこたなかですよ。山の美しかですけん、あのあたりは。

 大関山やら、御嶽さんやら、亀齢峠のあるあたりですけん。途中まで、こうまか神さんのおんなはるところでは、止まって、舞いおさめしてですね。そういうときは、みんな神さんの子になっとる気のしますとなあ。目えのくらくらしとって、もうよか霧の出て。

 

おそよ小母さんの印象深いこの言葉、 

 

往還道ちゅうのは、どこまでもどこまでもつないでゆけば、世界の涯までゆかるるとでしょうもん。

 

そして、また、この言葉、

わたしはああたに、語ろうごたることのあるとですばってん、東京になあ、ゆきなはるなら……。いつ帰っておいでなはりますと? 花の長崎ち、むかし言いよったですばって、今は、みやこは東京ですもんね。わたしどま、そういうところにゃゆかれませんとなあ。なんばして生きとりましたやら、空夢ばっかり見て、都のなんの、ゆくこたなかでっしょ、田舎人ですけん。 

 

「空夢ばっかり見て」と語る、その空夢の美しさ、せつなさ。

 

世界の涯までつながることが、すみずみに宿る神さんたちとつながることではなく、

近代の都とつながることであり、とてつもない災厄を招き寄せることであったことを、照らし出す、美しい語り。