『苦海浄土』 江郷下ます女の語り。  そのときは月夜だったのか、雨夜だったのか。

 

水俣病で亡くなって、解剖されて、包帯でぐるぐる巻きにされて、目と唇しか見えない、真っ白な包帯には血のような汁のようなものがにじみ出ている、わが娘和子を、ます女は背負って、水俣駅の先の、踏切のところから、わが家のある坪谷へと、夜の線路を歩いていくのです。

 

そのときの情景をます女はこう語る。

まずは、『苦海浄土』第二部神々の村 第四章「花ぐるま」より。

 

お月さまの在んなはりましたっでしょうかなあ、枕木の、ちっと見えとりましたっでしょうか。坪谷の手前まで、水俣駅から、小半里ぐらい。今夜が和子、別れじゃねえち、母ちゃんが背中におるのも、今夜までぞう。苦しみ死にするため、生まれて来たかいち、死んどる子ぉに語り語り、歩きました。

月夜の線路。背には死せる娘。

 

そして、『苦海浄土』第三部 天の魚 第二章「舟非人」より。

柔らしゅう歩こうばってん、この汽車道の、なかなか、よかあんばいに歩かれんとぞ……手切るるめえぞ、うちに着くまで、首ども、つっ転がすまいぞ……。

 解剖してある子にそういいきかせまして、歩いては止まり、歩いては止まりしながら、雨のしとしと降る晩に、汽車道の上ば、長うかかって連れて帰りましたです。親子ながら、ぐっしょり濡れしょぼたれて。かなしゅうございましたばい。今でもなあ。

 

雨の夜、親も死せる娘も濡れそぼる汽車道

 

 

苦海浄土第二部「天の魚」は、1974年刊行。

第三部第三部「神々の村」は、2006年に刊行されている。

ちなみに、第一部の刊行は1969年。

 

第二部と第三部の間には32年の月日が流れている。

その間に、雨に打たれて和子を背負って江郷下ます女の汽車道は、月夜の線路へと移り変わる。

どちらが正しいのかって?

どちらも正しいんですよ。

正しさを問うこと、それ自体が意味のないことなんですよ。

語られたその情景は、語られたそのときの真実である、それが「語り」というものなのだから。