永達は、どこへ行こうか、と考えながらちょっと立ち止まった。
これが冒頭の一文。
流れ者永達は、ワケあって次の工事場を探して旅に出たところ。
旅の道連れになった鄭は故郷の「森浦」へと帰るところ。十数年ぶりの故郷に。
永達は鄭とともに「森浦」へと行くことにする。
「おれたちは森浦に行くんだ……。そこはおれの故郷でね」
森浦へと向かう汽車の駅までの短い道中、二人の流れ者にとって「森浦」は、「故郷」の代名詞へと意味を変えてゆく。
流れ者たちは「故郷」へと向かっている。
しかし、その「森浦」は、もはや失われた「故郷」、
ベトナム戦争参戦の見返りのドル資金と、日本からの借款とで、開発独裁「漢江の奇跡」のただなかの1970年代、朴正煕の開発独裁の下、韓国社会が「故郷」を失っていった時代の風景がここには描かれている。
駅の待合室で行きあった老人と鄭さんの会話。
「故郷はどこかね?」
「森浦ってご存知ですか?」
「知っとるとも。息子がそこでブルドーザーの運転をしてるんだ……」
「森浦でですか? 森浦は工事場になるようなところじゃないでしょう。せいぜい魚を獲ったり、じゃがいもでも植えたりするところですよ」
「ハハ―! 何年ぶりに帰りなさる?」
「十年ぶりです」
老人は、むりもないとうなずいた。
(中略)
「村は昔のままですか?」
「昔のまま? あっちも工事、こっちも工事で、市までたっているからのう」
流れ者永達が森浦の工事場で仕事ができることを喜ぶ一方で、鄭は逆に森浦へと向かう足が重くなる。もはやそこは「故郷」ではないから。
彼は心の拠り所をたった今、失ってしまったのだった。いつの間にか鄭さんは永達と同じ立場になってしまった。
◆作家ファン・ソギョン曰く
「「森浦へ行く道」は、六〇年代の経済開発五か年計画が推進されていく中で根こぎされた浮浪労働者、あるいは離農民が都市周辺に集まり始めたころのことを描写したものです。」
一九七〇年代初め、韓国社会が経済発展の過程で「故郷」を失っていく(あるいは、破壊してゆく)、その「はじまり」の光景を描いた作家ファン・ソギョンは、
今や、それから半世紀近くが過ぎた韓国の、「おわり」の光景を見つめている。
誰ひとり「故郷」を持たない社会の到来。それは「森浦へ行く道」の彼方に広がる風景、あの頃はかすかな寂しさ、かすかな予感でしかなかった社会の到来だったのだろう。