リンギス『何も共有していない者たちの共同体』  メモ

■「もう一つの共同体」より

 

共同体は、人が自分自身を裸の人間、困窮した人間、見捨てられた人間、死にゆく人間に曝すときに、形づくられる。人は、自分自身と自分の力を主張することによってではなく、力の浪費、すなわち犠牲にみずからを曝すことによって、共同体に参入するのである。共同体は、人が自分自身を他者に、自分の外に存在する力と能力に、死と死すべき運命の者に、曝けだす動きのなかで形づくられる。

 

※近代的合理的共同体の彼方、あるいは手前に存在する、もう一つの共同体。

 何も共有していない者たちの共同体。

 

■「世界のざわめき」より

 

情報を伝達する表現の動因としての私たちは、交換可能な存在である。しかし、私たちの唯一性と無限の識別可能性は、私たちの叫び、つぶやき、笑い、涙、つまり命の雑音のなかに見いだされ、耳にすることができるのである。

 

※ ノイズのある世界、かけがえのない命の世界

 

自然法則あるいは合理科学によってプログラムされ、全自動化された産業と事業に添えられた言語の多くは、さらには、つまらないことにたいして、がっかりすることにたいして、そして災厄にたいしてすらも添えられた言語の多くは、笑いを引き起こす以外の機能をもっていない。うめき声とうなり声に混ざりあった笑い声が、世界の騒音のなかに発せられる。私たちが抱擁しあうときに語ることの多くは、私たちのため息とすすり泣きを、雨と海に解放してやるために語るのである。

 

私たちが抱擁しあうときに語ることの多くは、私たちのため息とすすり泣きを、雨と海に解放してやるために語るのである。

 

■「対面する根源的なもの」より

 

語りの極限の状況とは、観察、行動のための原則、他者から他者へと授受される信念、こういったものの共通の蓄積、――これらはあらゆる共同体にある――が存在していないという状況である。

 

 ※ しかし、この極限の状況からしか、極限ののちの新たな世界を拓くことばはやってこない。

 

それは始まり、コミュニケーションの始まりなのである。

 

誰かが私の方を見るとき、その目は、彼または彼女が巡り歩く光の深みを広げるために、光のなかで輝いている別の光源を求めているのである。(中略)他者の視線は、私が見ている風景の表面と輪郭を見るために、私の目を見るのではない。その視線はまず、私の目のなかの光の活発さと輝きを求め、私の目が気づかいながら抱いている影と暗闇を求める。

 

他者の顔は、私の生の喜びが浸されている根源的な物の源泉を要求するために、根源的なものが現れる場なのである。

 

※「他者」と「私」を結びつけるものは、具体的な何かではなく、それぞれのうちの宿る世界の光と闇、他者のうちに宿る光と闇を受け取ることにより、その光でみずからの闇を照らすことにより、世界はまた新たな始まりを迎える。

 

  

他者は、触れること、そして付き添うことを、求めているのである。

 

 

■死の共同体

 

行動するとは、今ここに位置している存在を、新たな可能な位置に向けて投げ入れることである。行動することは、新たに始めることであり、すでに生じたものとの関係を断つことだ。それは、自分のなかに生じたものを、未来のなかに投げ入れることである。 

 

ずっと考え抜かれた思考は、もはや何も考えない、とメルロ・ポンティは述べた。思考は、みずからにとって完全に明瞭ではないときに、つまり未知の領域に進むときに、光明を発する。思考が最初に何かを照らしだしたときの感嘆は、その思考が一つの真理として定着したときには、再び新しく光を放つことはない。

 

人は、自分が自分であると確認される自分の手を見る。そして、自分の指にある、四十億の人間の右手の、どれ一つにも見いだせない数十本のしわを見る。人は、この自分が自分であることをと、この手だけが触ることのできるものに他者の手が触っていないことに、気づくのだ。(中略)自分の脳の、他にはない回路を組み込まれ、他の誰の脳もそのために組み込まれていないような、全世界の問題を待ちかまえている力、自分以外の肉体では、刻み、踊り、抱擁することができない方法で、偶像を刻み、踊り、抱擁するためにの神経回路と筋肉組織の力、他の誰もができないように、愛し、笑い、涙を流す。しかし、人は、こうした力が、それを待ち望んでいるものを見いだすことができる領域に自分自身をいまだ置いたことがなかったこと、そして、その領域は、日々の繰り返しが自分のために照らしだす仕事の地図の彼方に存在する、はるか遠く離れた砂漠のなかに、探し求めなければならないことに気づくのである。

 

※ 人々が交換可能な存在としてそこにある近代社会のなかで、つまり他者が存在しない社会において、交換不可能なかけがえのない存在としての「他者」を見いだすこと。交換不可能な存在としての自己を見いだすこと。

 

私は、別の人間が退いた場所に生まれ、他者が進んだ道を歩くように送り出されたのだ。私にとって、世界は最初から、他者が感受した可能性の場、他者のための可能性の場である。私が、私のための可能性をとして見いだすものは、他者が、私のために残してくれた可能性なのである。そこには、彼らが実現し、私以外の人でも実現できるような可能性のみならず、彼らが自分の力を実現しつつも現実化できなかった、彼らだけの可能性も含まれている。