新自由主義、排外主義、過剰な民族主義、つまり右派ポピュリズムの広がりの中で、
「決して心地よいものではない共生」を考えるということ。
経済的に分断され、イデオロギー的に二極化していく世界の中で、かよわき者、声なき者、排除される側、差別される側から世界を見つめ返す、想像し、創造しなおすために。
コロナがあぶりだすのは、政治=経済=軍事を握る者たちあ(国家)が、どのような基準でこの世界を分断しているのか、どのような者たちが排除の対象なのかということ。
何が「不要不急」なのかを決める自由すら、われわれは既に奪われていたということ。
ところが、このコロナの世界では、国家など無力なのだということもあらわになったではないか。
(今日は私は2006年に公開された映画『ナミイと唄えば』にまつわる話を、オンラインでの映画上映後にしなければならないのだけど、いまのコロナの世界で、権力が真っ先に不要不急のものとしてつぶしにかかってくるのが、ナミイおばあのような地を這い、旅を生きる芸能者たちなのだということを想う。
名もなき芸能者たちが開く歌と語りの「場」が潰されようとしている今を想う。
命の循環ではなく、大きなお金の循環だけと結びついたものだけが、急を要するものとされている今を想う。
唄う者が唄の主となり、踊る者が降ろいの主となり、その場に集う者それぞれが場の主となり、つまりは命の主となる、誰のものでもないわが命の発露を、自分ならぬ者たちに規定されない、網野善彦流に言えならば、「無縁の場」が潰されてゆく今を想う。
それは明治国家の出現以来、つねに国家の意思によって企まれてきたことでもある。
国家意思とは別のところで息づく命の場、命の風景、それを私たちはけっして手放してならないのではないか。)
国民があたかも獣のように導かれてただ隷属することしか知らない国家は、国家というよりは荒野と呼ばれてしかるべき (スピノザ『国家論』より)
この項、つづく。