2021年最初に観た映画は、小森はるか監督『空に聞く』

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やはり小森はるかは「座敷わらし」なのだな、と思いつつ、スクリーンの中の人々の声に聞き入った。

(前作『息の跡』を観た時にそう思った。)

 

聞き手(小森)には、ことさらに聞こうとする気配がない、ただそこにいる。

聞き手は、ことさらに「聞く場」を開かずとも、もともとそこにある「声が行きかう場」の片隅にちょこんと座っているだけのようである。

ちょこんと座る「耳」。その「耳」が語り手(主人公阿部裕美さんと、彼女と「声」で結ばれる陸前高田の人々)の声を、私たちのもとにもそっと送り届ける

(この「そっと」というのが、とても大事)。

 

あの頃、陸前高田には、復興への「大きなかけ声」と、復興のための嵩上げ工事の絶え間ない「音/ノイズ」の中に埋もれている、無数の小さな声、呟き、くぐもる声、押し殺された声、つまりはそこで生きていく人々の声があった。

(と、私もまた映像の中の声に聞き入りつつ、あらためてそのことに気づかされる)

 

この映画は、震災後の復興の過程の中で、それぞれの命を生きる「声」たちの映画であると同時に、その「声」たちを聞きたい、その「声」たちとともにここで生きていきたい暮らしていきたいと願う「耳」たちの物語のようにも思われた。

 

私は、ラジオというものが、それ自体が大きな耳になることにも気づかされて、ハッとしたのでもあった。

 

陸前高田災害FMパーソナリティの阿部裕美さんは、常に陸前高田の誰かの声を聞き、誰かに語りかけているから、(ラジオというのは、なんと親密な声のやりとりを可能にするメディアなのだろうか)、映像をとおして阿部さんを観る私たちは、真正面から阿部さんの声を聞くことはほとんどない。

これは小さな心の「声」を行き交わせている者たちの、横顔の映画のようにも思われた。

(横顔でなければ、ちょっと上を向いているんだよね)

 

真正面から相手を見据えて語る者の多くは、たいてい、自分の本当の声を見知らぬ誰かに不用意に盗まれまいと、見えない鎧をまとっているものだけど、横顔の彼らには鎧がない。(それは監督の座敷わらし小森に対しても同じ、さらには小森自身もまた同じだ)

 

姿は見えないけれど、ラジオから流れでる声を聞いている人々がいる。

そして、その人々に向けて語りかける人の横顔。

(ラジオから流れでる声を聞く人々の横顔も私は思い浮かべる)

 

ラジオとはそもそもが、互いに姿が見えない者同士の対話なのだということにも思い至る。

 

見えない者といえば、こんな光景もあった。

陸前高田の、ある地域の七夕の山車には、地上に生きている者には見えない部分に、空に向けて、「おかえりなさい」と書かれているのだと、(陸前高田の空には震災で地上を去った人々が暮らしているのだ)、そのことをとても大事に思っている小さな声が、七夕の実況をする阿部さんに耳打ちする、やはりそのことをとても大事に思って、それをラジオの向こう側の人々に耳打ちする阿部さんがいる。

 

このラジオは、毎月11日に空に暮らす人々に向けて、沈黙の黙祷の時間を持つ。

黙祷の時間の始まりに、毎月同じ言葉をラジオで語りかけるなら、録音した音声を使うことは考えないのかという、大きなメディアに関わる者からの愚かな問いに、「ばかじゃないの」と答える阿部さんもいた。

 

(ほんとにバカだね。対話を録音で済ます者がどこにいる? 祈りを録音で済ます者がどこにいる? 死者も生きていることを知らないなんて、ほんとにバカだ)

 

この映画を観ている73分間は、

死者や行方不明者を数字でカウントしていくような、過去を置き去りにしていくような者たちが発していく「復興のかけ声」とは異なる、

それでもここで、地上の人々も、空の上の人々も一緒に、この人々と生きていくのだと思い定めた人々の、ゆっくりと、みずからの命の速度で明日を眼差す「声」に耳を澄ませる時間。

 

その声は、過去にも未来にも伸びてゆく、

けっして忘れられても蔑ろにされてもならない、

命の声でありました。

 

座敷わらし、おそるべし。