森崎和江 産みの思想  メモ

「産み・生まれるいのち」より

 

死について古来人びとはさまざまに考えてきているのに、産むことについてなぜ人間は無思想なのだろうと、若い頃から疑問に思ってきました。死は個人にとって、個としての生活を完結させます。これにたいして、産むことは個に限定しがたい生態です。それは異性と子にかかわり、他者の発見に通じます。 

 

 

産むことは、生まれることなのです。生まれるいのちを、人間は産むのです。時代は、人間たちの意識の開花を待っています。 

 

 

これは1994年刊の『いのちを産む』からの抜粋。

 

 

「ゆきくれ家族論」(1979年)より

 

ことことと胎児が私を打ちつづける。意識や感覚を肉体のなかから打ってくる。(中略)私は身ごもってからもなお内から発信されつづけて、息ぐるしいまでにゆさぶられた。何かとてつもない変化が近づく。そして何かがこわれていく。私の認識のとどかぬところで。

 

(中略)

 

生まれたものから、産むものへの、その変動はただ肉体や感性の破壊や新生にとどまらない。私は詩も書いていたから、詩を書こうとしつつ、書けなくなった。よくよくみつめていると、私が知っていることばのすべては、私という用語すら、生まれたものの意識秩序で流れていた。そこには産むものの肌ざわりがない。私の心は母を呼びつつ泣いた。幾千幾万の母たちの、産室の無力へむかって泣いた。その自己表現の無力さをののしりつつ泣いた。そしてこの世に、産小屋の伝統があるいみを、知った。女たちが子産みのとき、家を離れ村を離れて、うぶごやへ向っていたその民俗の文化的いみを知った。それは生まれた者の秩序が支配する世の中から、産むものがみずからえらんだ姿に違いなかった。 

 

「生まれた者の秩序が支配する世の中」としての、この世界を考えること。

産む女が胎児と二重になった人格をみずからひとつのことばで語りつつ、その創造世界を作ること。

それを森崎和江は、女たちの文化にかかわることなのだと語る。

男性女性の想像力の開発に関することなのだと言う。

そして、想像力は文化の泉なのだと。

 

サークル村の頃、いまだ産むものの思想を言語化できない森崎和江を、谷川雁がくりかえし罵倒したのだという。(いま、この文章を読んでいても、二人のあまりに厳しい関係性が、そしてマッチョな谷川雁の相貌が目に見えるようで、ツラい)

その関係性のなかで、「男という生理がとらえた世界の秩序感覚は伝わってくる」と森崎和江は言う。そして、こう考えた。

 

なるほど男とことばと世界との内的連関はそうなっているのか、と思い、針に糸を通すように、いつかはその思考経路にちいさな穴をうがち、細い絹糸で女の世界と結びあわせたいものだと考えた。なぜなら人はくりかえし生まれ、かつ産みつづけているのに、産みの思想が文化から消えて久しく、そこはあっけらかんと真空であり想像力すらはばたかず、物質生産の原理に人の生ま身も知力もうばわれているのはさみしすぎるから。ただただ、さみしいから。

 私は、人びとは死に対して想像力を育てたように、生誕に関してもまず女が口火をきることができれば、さまざまな角度から思想をかもし出し、生まれた人間から産む人間への過程をも意識化すると信じている。

 

生まれた人間から産む人間へ。

ここに書かれていることは、とても大事なこと。

単に、「「産む性」の想像力を重んじよ」ということではない。

「生まれた人間」の想像力の収斂されていく先が「死」であること、

人間は生まれた時点で、既に終わっているのだと言ってもよいのかもしれない。

産む人間の想像力を失った人間は、一個の死として生まれてくるのであり、その想像力には滅びがあらかじめ内蔵されている、(いや、再生という発想を持たない)

生まれた人間と産む人間の対比は、そのようなことにまで思い至らせる。

かつては産む人間の想像力・ことば・世界が確かにあったはず。

それはなぜ失われたのか、それをどうやってよみがえらせようか、

そんな問いを森崎和江は投げかけてくる。

 

いまいちど、なぜ、産みの思想なのか?

それは自然破壊に対する人間のたたかいの根源となる部分だから。そして家族は、「産み」の意識化にそって変転すると思う。社会の物質生産の原理におしながされて、労働力の再生産としての出産・生誕に閉ざされるのはごめんだから。性交と生誕の間に、ことばの川も橋もないなんて、人間としての恥だから。だいいちロマンがなのだもの。

 

 

 

「先例のない娘の正体」(1981年)より

 

戦後日本も、性は思想の問題ではなかった。わけても生殖、子を産むこと、はそうであった。人間のとらえ方が、思想界は伝統的に、人は生まれ死ぬ、というものであり、庶民のそれとはちがっていた。庶民は、わけても女は、人に生まれて、子を産み、そして死ぬ、という把握をして生きていた。産むことは生活の核であった。

 

森崎さんは「内発的」ということを思想の核に置く。

「産む」ということ、「生活」ということ、「生きる」ろいうことの内側から、底から生まれ出たのではない思想に、それとともに生きるべき「内実」が一体あるのか? ということをそれは意味しているのだと思う。

 

戦後社会の思想界は生命の生産に関する思想を生み出すことについて、まことに冷たいものだった。もっぱら生活資糧生産の次元での、世界認識や理論闘争にあけくれた。そのことが私をくるしくさせていた。たとえ物資生産の次元での不平等が是正へ向おうとも、また生活が豊かになろうとも、性は新しい生命につながるものだということに関する現代的思想がないかぎり、近代社会は足をすくわれる、と思った。 

 

 

闘いよりエロスを

闘争より愛を

 

 

この森崎和江の叫びを、いままたしかと聞き取ること、

この根源的叫びに、いま、自分自身の言葉で、自分なりの意味を与えること。