森崎和江の身体感覚と言葉への感性。あまりにも鋭敏な感覚。
森崎和江の世界は言葉にならない欠如に満ちている。
その欠如を生き抜いていくには、言葉が必要、思想が必要、切実に必要。
それは、はじまりの言葉であり、はじまりの思想になるほかはない。
ある日、友人と雑談していました。彼女は中学の教師でした。私は妊娠五ヵ月くらいでした。
笑いながら話していた私は、ふいに、「私はね……」と、いいかけて、「わたし」という一人称がいえなくなったのです。
いえ、ことばは一呼吸おいて発音しました。でも、それは、もう一瞬前の「わたし」ではありませんでした。何か空漠としてそのことばが自分にもどってきたのです。
私は息をのみ、くらくらと目まいがしました。
つい先ほどまで十分に機能していたはずの「わたし」ということば。男性との会話のときでも、互いに共通する内容を持っていた一人称。私の存在の自称。
その「わたし」が、なぜか、ふいに、胎動を感じながら談笑していた私から、すべり落ちたのです。まるで、その内容では不十分だというかのように。
私は体だけになりました。
いえ、体もここもとても幸福で、子どもが日に日に育つよろこびで満ちていました。
それでも、私の総体は、世間のことばからこぼれ落ちていました。よく知っていた「わたし」が消えていました。夜、おそろしく涙が流れるのです。
「ほねのおかあさん」
くちびるがうまれたよ
ももいろのあせ
かわいいおしゃべり
夏空をきらきら駆ける
むきだしの
熟れたおしゃべり
みぎの乳首
ひだりの乳首
<さようなら>
そんな なさけもかけられず
とりのこされて
<わかってやしないのよ
どうせなんにもしってやしないの
ひとりいいきな たかごえで
あのね
あのこ きこえないのよ>
なみうちぎわで
たたかれているほねのおかあさん
かぜがふくよ
ひろい木の股をふきあげて
いくまんねんのかぜのにおい
木もたおれて
さらされよう
さらされよ
魚くずのなかに
うるんでひらく無音のおしゃべり
ないているほねのおかあさん
私は、自分がももいろの汗と、骨の部分とに、分離して感じとれる思いでした。
こうした私のありのままを、分裂させずに一人称をはじめ、多くのことばにこめたいのに、今まで使っていた「わたし」にもその他のことばにも、社会通念がつまっていて、私ははみだしてしまうのです。
私自身が使っていた「わたし」には、くっきりとした個の自覚がつまっていました。自我といっていいかもしれません。肉体の内側から意識を刺激する他者の働きはふくまれていませんでした。
膨大なことが、いのちをめぐって、空白のままにのこされている (中略) しかし人間は、生まれて、産んで、そして死ぬのです。(中略)人のいのちは生まれて、産んで、そして死ぬという生命連鎖をふくんだ形でとらえてこそ、その全体は見えてきますのに、そうする習慣をもちません。
「産むこと」は、存在しているもの、と会うことではなかったのです。
びっくりしました。何もなかったのに、今、そこに在るのです。「わたし」をこわして、全く記憶のない存在として。それはすがすがしく生きているいのちでした。
まったく、びっくりするのは、私の方で、
初期の頃の森崎さんの、この言葉でもない、あの言葉でもない、と苦しみながら言葉を探していくような文章とは違い、実に平易に書かれているのに、実にすごいことがここには書かれている。
日本の、「個」が「全体」にのまれて見えなくなるような共同体に居場所を持たなかった植民地生れの少女は、そもそもそんな共同体を拒んで、「個」としての生き方を模索していくことになるのだが、その「個」が、「産み」の経験を通して、実は「個」ではありえないことに気づいてしまうわけで、
それは、
命を孕む、命を育む、命を生む、命をつなぐということのうちには、根源的な他者との出会いがあるということ、
命はどれも他者としてやってくるのだということ、
命は他者をを孕んで、あるいは他者に孕まれて、脈々とつながっていくのだということの、気づきでもあるわけです。
みずからの身体に宿る「命」という「他者」に対する認識を欠落させたままの「わたし」ではいられなくなった森崎さんが、命の出発点において絶対的に「他者」とともにある「個」の自我を問い直すとき、それはおのずともっとも痛烈な近代批判となり、そこから近代を乗り越える言葉と思想の模索がはじまる。
共同体から出発する石牟礼さんとは全く対極の位置にあるのだけど、つまり「命」との向き合い方が「個」からの出発という点で全く石牟礼さんとは異なるのだけど、「個」から「命」を考えて考えて考え抜いてたどりつく地点は、やはり同じなんだという驚きもある。
「命」にまっすぐに向き合うならば、どんな道筋をたどろうとも、近代の言葉・思想を超えてゆくほかないのだから。