① 信者
向うから
空桶 を担 いで来る女がある。塩浜から帰る潮汲 み女である。
それに女中が声をかけた。「もしもし。この辺に旅の宿をする家はありませんか」
潮汲み女は足を駐 めて、主従四人の群れを見渡した。そしてこう言った。「まあ、お気の毒な。あいにくなところで日が暮れますね。この土地には旅の人を留めて上げる所は一軒もありません」
女中が言った。「それは本当ですか。どうしてそんなに人気 が悪いのでしょう」
二人の子供は、はずんで来る対話の調子を気にして、潮汲み女のそばへ寄ったので、女中と三人で女を取り巻いた形になった。
潮汲み女は言った。「いいえ。信者が多くて人気のいい土地ですが、国守 の掟 だからしかたがありません。もうあそこに」と言いさして、女は今来た道を指さした。「もうあそこに見えていますが、あの橋までおいでなさると高札 が立っています。それにくわしく書いてあるそうですが、近ごろ悪い人買いがこの辺を立ち廻ります。それで旅人に宿を貸して足を留めさせたものにはお咎 めがあります。あたり七軒巻添えになるそうです」
信者と関連があるのだろうか。人買い山岡は数珠を手にしている。
はいって来たのは四十歳ばかりの男である。骨組みのたくましい、筋肉が一つびとつ肌の上から数えられるほど、脂肪の少い人で、
牙彫 の人形のような顔に笑 みを湛 えて、手に数珠 を持っている。我が家を歩くような、慣れた歩きつきをして、親子のひそんでいるところへ進み寄った。そして親子の座席にしている材木の端に腰をかけた。
※ここで言う信者は、浄土真宗の信者だろう。
(鴎外にとっては、説明するまでもないことだった?)
ちなみに、佐渡から来た人買いはこう言う。
母親は佐渡に言った。「同じ道を漕いで行って、同じ港に着くのでございましょうね」
佐渡と宮崎とは顔を見合わせて、声を立てて笑った。そして佐渡が言った。「乗る舟は弘誓 の舟、着くは同じ彼岸 と、蓮華峰寺 の和尚 が言うたげな」
※弘誓の舟:仏語。衆生救済の誓いによって仏・菩薩 (ぼさつ) が悟りの彼岸に導くことを、船が人を乗せて海を渡すのにたとえた語。誓いの船。
※蓮華峰寺は佐渡の真言宗の寺。 仏教用語が、恐ろしい言葉に変換されている。
② 安寿と厨子王の母の受動性
荒川にかけ渡した
応化橋 の袂 に一群れは来た。潮汲み女の言った通りに、新しい高札が立っている。書いてある国守の掟も、女の詞 にたがわない。
人買いが立ち廻るなら、その人買いの詮議 をしたらよさそうなものである。旅人に足を留めさせまいとして、行き暮れたものを路頭に迷わせるような掟を、国守はなぜ定めたものか。ふつつかな世話の焼きようである。しかし昔の人の目には掟である。子供らの母はただそういう掟のある土地に来合わせた運命を歎 くだけで、掟の善悪 は思わない。
子供らの母は最初に宿を借ることを許してから、主人の大夫の言うことを聴かなくてはならぬような勢いになった。掟を破ってまで宿を貸してくれたのを、ありがたくは思っても、何事によらず言うがままになるほど、大夫を信じてはいない。こういう勢いになったのは、大夫の詞に人を押しつける強みがあって、母親はそれに
抗 うことが出来ぬからである。その抗うことの出来ぬのは、どこか恐ろしいところがあるからである。しかし母親は自分が大夫を恐れているとは思っていない。自分の心がはっきりわかっていない。
この項、つづく。