備忘録その1  「田村語り」にまつわること

以下のメモは、『東北の田村語り』(阿部幹男 三弥井書店)による


坂上田村麻呂の説話化の道]

811(弘仁2) 「毘沙門の化身、来りてわが国を護ると云々」(『公卿補任


その1 清水寺がらみ


平安末     『今昔物語集』巻11 清水寺草創縁起

大和国子島寺の延鎮が、淀川付近で一筋の金色の流れをみつけ遡ると山城国東山の辺に至った。そこで行叡という修行僧に会ったが、行叡はここに伽藍を建て、前の木で観音を造ることを願って東国へ去った。一方、坂上田村麻呂は狩猟の途中奇異な水の流れをみて、その源をたずねると修行する延鎮に会い、二人は力を合わせて伽藍を草創、八尺の十一面観音を造立した。

1322(元亨2) 虎関師練『元亨釈書』のうち「清水寺延鎮伝」  将軍田村は延鎮が造って清水寺に祀った勝軍地蔵・毘沙門天により、奥州逆賊高丸との戦いに勝つ。


室町    謡曲「田村」
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その2 長谷寺がらみ

1200~1209頃  『長谷寺験記』  

奈良県長谷寺の本尊十一面観音の霊験説話の集成。2巻。1200~09年(正治2~承元3)に成る。編者未詳。長谷寺関係の僧で、おそらくその勧進聖(かんじんひじり)か。上巻に19話、下巻に33話をそれぞれほぼ年代順に配列する。類型的、一般的、あるいは他寺の霊験説話を長谷観音の霊験に語り変えるなど、長谷寺を顕揚する姿勢が著しい。個々の説話は、登場人物の名、年月日を細かに叙述する傾向がある。霊験の真実性を強調して、勧進に効果あらしめる方法の投影とみなされる。 [森 正人] 『永井義憲編『長谷寺験記』(1978・新典社)』

ここに、「田村将軍得馬勝軍建立新長谷寺事」(田村将軍、馬を得て、軍/いくさに勝ち、新長谷寺を建立すること)が収められている。(『験記』下・第5)


田村将軍が戦勝祈願で長谷寺に参篭したところ、童子が一匹の馬を引いてきて、戦いのときは必ずこの馬に乗るようにとの伝言を伝える。この馬が水上を駆け、山や峰を飛び越し、矢も立たない。尋常な馬ではなかった。この馬が陸奥国三迫で突然死ぬ。葬ったところ7日目に光り輝き異香を薫じたので墓を掘ると、生身の十一面観音がいた。田村はそこに寺を建立。新長谷寺と名付けた。同時に奥州6か所に寺を建立。延暦19年(800)6月16日に同時に6か所に落慶法要、田村は6分身して参席した。これが田村が毘沙門天の化身と言われる所以。


●1052年 大和の長谷寺炎上。
 藤原一門が中心になって再興に着手。

 造営料を割り当てられた全国有力者のなかに、奥州藤原氏陸奥の金。

「田村丸伝説をつたえる水越遮那山長谷寺をはじめ「長谷」と名乗る寺院は、この頃奥州に入った長谷寺勧進聖たちによって建立されたと考えられる」(阿部幹男)

注) 勧進の例として。

   森末義彰論文(1937)によれば、
   長谷寺は草創以来、何度も炎上している。中世においては本尊十一面観音にまで焼亡が及んだのは4回。
   1219年/1280年/1495年/1536年


   1495年(明応4)全山焼失の際、復興事業のために勧進聖(寺の長老級)決定。→ 大和の諸荘郷以下全国にわたって勧進網を広げる。


   ※勧進勧進帳の完成を俟って行われる。勧進帳をもって、権力者に諸国勧進の御聴許を受ける。

 


達谷窟からの道は、北上川にでて南下すると黄金山神社のある遠田郡登米郡へ、東に太平洋に出ると気仙郡、伊勢の朝熊山が想起される経塚群がある田束山を中心とする本吉郡奥羽山脈に沿って街道をすすむと高鞍の庄の金売吉次の事跡をツタエル金成、さらに熊野山黄金寺や音羽山清水寺のある岩ヶ崎、鶯沢山金剛寺義経ゆかりの白馬山栗原寺、奥州藤原時代に建立された浄土庭園を模した大伽藍の金峰山花山寺、そこから奥羽山脈を越えると酒田や大宝寺城(鶴岡)へ、そして加賀の白山・美濃の白山長滝寺・越前の白山平泉寺へと「黄金」のネットワークが広がる。


●白山修験は鉱山開発に長けていた。
 白山信仰は古くから産金にからんで陸奥に入り込んでいた。


藤原利仁との融合

鎌倉時代初期 『吾妻鏡』 坂上田村麻呂利仁将軍が達谷窟に立て籠った夷の賊主悪路王や赤頭を征伐


鈴鹿の立烏帽子」の説話との融合
●蒙古襲来がその契機。→ 幸若舞「百合若大臣」(「田村語り」との共通点)