『田村三代記』散歩/思わぬ津波の記憶 2021年9月20日 於)宮城郡利府町

『田村三代記』のうち、「第二段 悪玉御前の記」より、八幡神社流鏑馬の場面にまつわる話。

 

醜い水仕女 悪玉(実は盗賊の襲われ、奥州に売られてきた姫君)と田村二代将軍との間に生まれた子は、勢熊(千熊という表記もある)と名付けられ、悪玉の仕える九門弥長者の子として育てられる。

勢熊は、八幡神社流鏑馬の折に、卑しい悪玉の子と神社別当に辱めを受ける。

 

 

この悪玉と田村二代将軍と勢熊(千熊)にまつわる伝説の地が、宮城県宮城郡利府町

ここには染殿神社、伊豆佐比賣神社と、悪玉ゆかりの神社がある。

八幡神社は利府にもいくつかあるのだが、本文中には「八幡村八幡宮」とある。

それがどの八幡神社なのか、わからぬまま利府を歩いた。

そこで、まずは「八幡神社 流鏑馬」のくだり。

 

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若君は、九門弥が大切の世継ぎなればとて

一門一家を寄せ集め、吉日を選み(び)たて

もと、悪玉は、熊野より出でける者なれば

熊野の熊を象(かたど)りて、勢熊(せぐま)と名付ける

一年二年、早、過ぎて、七才となりければ

学問の為に、宮城郡に名も高き、龍門山道雲寺にぞ、登らせける

若君は、九門弥が大切の世継ぎなればとて

一門一家を寄せ集め、吉日を選み(び)たて

もと、悪玉は、熊野より出でける者なれば

熊野の熊を象(かたど)りて、勢熊(せぐま)と名付ける

一年二年、早、過ぎて、七才となりければ

学問の為に、宮城郡に名も高き、龍門山道雲寺にぞ、登らせける

さしも名高き九門弥が世継ぎのことなれば

供人、数多引き具して、御寺に至れば

住僧の御弟子となり、よくよく、学問怠らず

十四才になり給う

頃しも、今は、八月十五日、宮城郡八幡村八幡宮の御祭礼なり

流鏑馬弓太郎は、先年より、山の寺(洞雲寺)の子どもたりしが、

選み(び)出して候えば、

この度も、山の寺より出だすなり、

その日に当たりて、洞雲寺、

 

「今日の弓太郎は、誰にて

 勢熊こそ、弓の上手に候えば

 勢熊ならでは、叶うまじ

 八幡に参り、目出度く

 弓太郎を仕れ」

 

勢熊は畏まって、御請けし

さすが、長者の世継、装束は人々に優れ

一層目立って華やかなり

子供共を引き具して、八幡の宮へと参らるる

社内に至れば、水垢離すかき(をとり)

御身を清め給いて、神前を拝しける

全て、別当に対面ありて

互いに、式対(体)一礼(※会釈のこと)終わり

その後、別当、申しける様は、

 

別当)「今日の弓太郎は、どなたにて候ぞ 姓名を名乗られよ」

 

子供ども、答えて

 

「今日の弓太郎は、忝くも、山の寺の学頭 九門弥が世継ぎ、勢熊殿」

 

とぞ、申しける、別当、大いに腹を立ち(て)

 

別当)「何、勢熊が、弓太郎に来るとや

     九門弥が実の子、そなた(そのような)軽き者を

     ましてや、勢熊は、九門弥が子にて、子にあらず

     水仕女(め)の悪玉が子なるぞや

     左様の賤しき者を

     この庭の弓太郎とは穢らわしや

     早速、ここを、立ち退けよ、後を清めよ」

 

と、もっての外に、叱りつける

勢熊は、数多の中にて、別当に恥辱を与えられ

「憎き別当かな、己、只一撃に、打ち割りて、兎にも角にもなるべき」

と、思えども、いや待て暫し我が心、

短気は損の基いなりと、心で心を取り直し

唐土(もろこし)の韓信は市人の股をくぐり、漢の高祖に仕えて、

四百余州の臣下となり、さるによって、韓信が伝え置かれし事共を

思い出し、市人の股をくぐりて、末には、千人の肩を越ゆと承れば

勢熊も、ここにて、恥辱を取るとも、ついには、千人の肩を越えてくれん』

と、心を静めけれども(「史記―淮わい陰いん侯こう伝」)

「数多の人に、後ろ指、指されん事は、無念なり」と思って

九門弥が館へと帰らるる

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不思議なことも起こるもので、

利府の赤沼、菅谷、沢乙あたりを悪玉ゆかりの地をめぐって歩いて、

菅谷の道安寺を訪ねると、悪玉のことなら沢乙温泉のとある旅館の大将に聞け、と言う。

 

そこで旅館を訪ねると、大将不在(旅館の従業員の方は、「親方」と呼んでいた)、「親方」はいま、郷土史研究会のために利府の公民館に行っているから、そこに行けという。もう親方にはその旨伝えてあるから、大丈夫だと。

 

親方を訪ねていきました。すると、いま、まさに、郷土史研究会で「千熊丸」をテーマの発表を聞いているところだという。

 

奇遇ですねぇ、と言いつつ、研究会を中座して出てきてくださったので5分ほど立ち話。

 

その折、田村三代記の中の流鏑馬の舞台の八幡神社の所在を確認したところ、こんな話が飛び出したのだった。

「ああ、その八幡宮は利府ではない。多賀城の八幡社です。利府の八幡社は1000年前の地震のときに、津波多賀城から流されてきたご神体を祀ったもので、泥まみれだったので「泥八幡」と呼ばれているんですよ」

 

泥八幡!

 

あらためて調べました。

 

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参考) 多賀城 八幡神社

本社は宝永4年火災に罹り社殿並びに社蔵の古記録を失ったので由緒を詳にし得ないが、元正天皇養老5年諸国に国分寺を建立せられし頃、別当寺磐若寺と共に末松山に勧請したといわれる。又往古豊前国宇佐郡から奉遷した奥羽の古社で、延暦年中坂上田村麿東夷征伐の時数多の軍兵を率いて此地に逗留し建立したともいい、又本社は元松島に在り、類聚国史載する所の宮城郡松島八幡是也。田村将軍多賀城に在る日、之を末の松山に移し建て、以て祭祀に便すともいわれる。里俗末松山八幡宮、興の井八幡等と称した。社傍に田村麿軍兵を屯集せし所と伝える地を方八丁といい、頼義父子賊魁を征するや田村麿の例を以て兵を方八丁に置き此の社を祈って軍功あり、建保年中将軍頼朝其の地を平右馬介(留守伊澤氏の家人八幡介)に与う。右馬介城を末松山に築くにあたり社を今の地に遷した。当時祠田二千石子院二十四、祠官三十人といわれる。伊澤氏領土を除かれ社は遂に荒廃したが、羽州天童城主甲斐守頼澄伊達政宗の臣となり、慶長年中八幡の地に封ぜられるに及んで、伊達家の尊崇極めて篤く、貞享元年6月藩主綱村再造し祠殿を旧に復した。宝永4年の火災に罹った。藩主吉村の社参のことあり今に奉納の短冊並びに鉄砲玉を蔵している。祠側に騎馬場あり、伝えて千熊の騎馬をしたところという。千熊は田村将軍の子である。現今の馬場は元例祭の折、流鏑馬をしたところであったが今は行わない。郷社に列せられた年月は明でない。明治43年3月供進社に指定、後に二社を合祀している。